あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

あこがれの「きみ」

よそさまの噂話になるけれど、marcoさん(id:garadanikki)ちのパートナーさんのMOURIさんは、marcoさんのことを「きみ」とお呼びになる。先日のパソコンスタンドを買われた話でも、そのスタンドがとても調子が良いそうで、「調子いいよ、君も使ってみるといい、買ったげるよ」と仰ったそうだ。

 

これを読んで私は「ああ素敵!」と思ってしまう。実は私は「きみ」と呼ぶ人と出会ったことがない。いつも名前で呼ばれてしまう。で、「きみ」と呼ばれることに憧れがあるのだ。

 

白魔女さん(id:whitewitch)のお宅でもパートナーさんは白魔女さんを「きみ」と呼んでいらっしゃる。これはもしかしたら地域的な問題か。首都圏の人は、「きみ」という二人称をパートナーに使うことはそんなに珍しいことではないのだろうか。

 

科捜研の女』では、土門刑事がいつもマリ子さんを「おまえ」と呼んでいる。それを聞くたび、私なら土門さんに「おまえ」と呼ばれたくないけれど、マリ子さんは抵抗を感じないのだろうかと思う。恋愛ドラマでも結構「おまえ」呼ばわりがあるけれど、そのことに抵抗を示すヒロインはめったにいない。

 

もちろん「おまえ」は「御前」でもともとは敬意を込めた呼称なのだけれど、これは「やばい」などとは逆に私はその敬称であった時代を知らず、もっぱらぞんざいな使われ方をし出してからしか知らないので、つい抵抗を覚えてしまうのだ。

japanknowledge.com

 

そうは言っても、これが土門さんでなく(土門さんごめんなさい)自分の好みのタイプの人が親愛をこめて口にしたのなら、抵抗どころかデレデレしてしまうかもしれない。

 

 

話がそれてしまったが、長く夫婦をしてきた二人が、なお相手への愛や信頼を込めて呼びかけ、相手を思いやる姿は美しく、周囲の者の心まで温かくする。それはたぶん「きみ」とか「おまえ」とかいった呼称だけの問題ではなく、その底に流れるものの温かさなのだろうけれど・・・。

 

 

実は毎年相手を替えるというオシドリ夫婦。 (鳥・撮り・トリミングさんのサイトより)

 

【追記】

リアル世界の友人では、かつて宮中晩餐会に出ることになった友人について書いたが、その友人のパートナーさんがやはり「きみ」と呼んでいて、素敵なご夫婦だ。

yonnbaba.hatenablog.com

 

各国料理でおなか一杯

前回は2019年12月だったが私は風邪をひいて欠席し、以降はコロナで開催できなくなったので、私にとっては、なんと今日は2019年6月以来丸5年ぶりのふれあい日本語教室ポットラックパーティーとなった。スタッフも新しい2名は初めての経験だ。

 

前回私が参加したポットラックパーティー

yonnbaba.hatenablog.com

 

前回の頃は学習者が少なかったので、たまたまモルモン教の若い宣教師たちが参加してくれて「久々ににぎやかな」パーティーになったと書いているが、写真に写っているのはスタッフを含めて11人。撮影している私を入れても12人だ。

 

現在は大分学習者が増えている。春休み明けの先週(だいたい長い休みの後は出てこなくなる人が増える)でも7人の参加があったが、今日は15人くらいの参加があった。「来週からはまたいつもの勉強ですよ、来てくださいね!」と言って解散したが、はたして来週の出席はどうだろう。

 

人数も多かったので、一人一品(それ以上持参してくれた方も)でも料理もお菓子も非常にたくさんで、ちょっとずつでも全種類食べたかったが、とても全部は食べきれなかった。

 

 

並びきらなくて、デザート類はこちら。

 

 

普段休みがちだと、パーティーの時などだけ参加することに気後れをするのが日本人の思考法だと思うけれども、外国の方は反対だ。たぶん今日はたくさん出席してくれるんじゃないかと予想していたら、案の定という感じだった。このところあまり出てきていなかった人もかなり来てくれた。楽しそうなことには参加する。非常にシンプルというか、人生を楽しむのが上手だなと感じることが多い。

 

先週の参加者にはムスリムの方のためのハラルフードについて説明したが、ペルーの方などムスリムでなくてもちゃんとハラルの肉を使った料理を作ってきてくださった。参加してまだ間のないスタッフは、自信がないのでハラル表示のあるお菓子をお店で求めてきたと言っていた。

 

大勢で同じものを食べて飲んでおしゃべりして笑って・・・。地球規模でこれができたらいいのにね!

 

古いブログ

リニューアルのため長らく休んでいた豊橋市美術博物館が、この春やっとオープンした。開いたらすぐ行こうと思っていたのに、3月に開館していたのを知らずにいて、オープン記念展は終了してしまった。

 

数日前には、長男のパートナーのもとに送ったはずの誕生日プレゼントが我が家に届き、あわてて少し品物を足して発送し直した。日にちに余裕を持たせておいたのが幸いし、かろうじて間に合った。

 

なぜこうもおっちょこちょいなのだろう。

 

今日はその美術博物館ネタで、16年も前の、今はなくなってしまった「Yahoo!ブログ」に綴ったブログを再掲する。

 

*****

出かけるのが苦手な私ですが、
今日は珍しく小雨模様のなか外出しました。
行く先は豊橋市美術博物館。
開館30周年記念展「上村松園・松篁・淳之展」を見るためです。

この3人の展覧会は名古屋でも一度見ましたが、
それぞれ素晴らしく、とりわけ淳之さんの優しそうな鳥たちには惹かれます。
その淳之画伯の講演が今日なのですからがんばって出かけないわけにはいきません。

講演は先着250名となっているので、
あまりゆっくり見ていると入場できなくなってしまう、と少々絵を見るのに気が散ってしまいました。
やはり絵を見る日とお話を伺う日は別にするべきでした。

松園さんの作品が一番多く、ついで松篁さん、淳之さんのはたった11点で少々残念。
でも、松園さんの「待月」という作品に出会えただけでも大収穫でした。
しかもこの作品は前後期で入れ替えのため今日が展示の最終日だったようです。
知らずに出かけたのだけれど、今日行って本当に良かった!
後期には「花がたみ」がありますが、これは名古屋で見たからいいとしましょう。

松篁さんの「金魚」にもまた出会えて嬉しくなりました。
出目金さんたちがなんとも愛らしく、
彼らの楽しいおしゃべりが聞こえてきそうで、思わず笑みが浮かんでしまいます。

松篁さんの「晩秋」、淳之さんの「初めての冬」。
どちらも魅力的な狐の絵です。
似ているのですが、微妙にそれぞれの画家の持ち味が出ているように思います。
松篁さんの鋭さ、淳之さんの愛しさ、どちらも甲乙つけがたい。

そして淳之さんの描く鳥たちは相変わらず実に優しい眼をしています。
本物の鳥は私はちょっと苦手なのですが、
あとで淳之さんのお話を伺ってなるほどと思いました。
鳥はそばに人がいると緊張する、だから厳しい目をしている、
でも自分には鳥たちは安心しきっているから優しい目をしているんですとおっしゃいました。
な~~るほど。

西洋の絵画と日本画の違い、
西洋人と日本人の自然との向き合い方の違いなどを、
気さくな口調で時折やわらかな京都なまりを交えて話され1時間半があっという間でした。
日本画への情熱、美を感じる心への強い思いなどがとても伝わってきました。

これからも作家の方々が感じとり表現してくださった美の世界で、
ともに遊ばせていただく至福のときを楽しみたいと思います。   2008.10.26

 

 

上村淳之さんの「憩」

 

 

 

ごちゃまぜで生きる

昨日の日曜日。朝テレビをつけると、「ごちゃまぜで生きる・・・」という言葉が聞こえてきた。Eテレの『こころの時代』だった。

 

「ごちゃまぜ」というのは私がかかわっているNPОが掲げているものなので、興味を惹かれて見てみた。

 

番組ホームページの紹介には、

石川県にある福祉施設「B’s行善寺」にはさまざまな人が“ごちゃまぜ”に集う。施設を作った雄谷(おおや)良成さんは社会福祉法人理事長であり僧侶でもある。その原点は祖父が住職を務める寺で障害のある子どもたちと家族のように育ったこと。自身と彼らとの違いを感じながらも世間から蔑まれることに違和感を覚えていた。やがて福祉の道を進み始めた雄谷さんは、さまざまな人や法華経の言葉と出会いながら、皆で生きる意味を見つけていく

とある。

 

このB’s行善寺は、福祉行政では縦割りで分けられてしまう、子供・高齢者・障碍者・外国人などが「ごちゃまぜ」で過ごす、居心地の良い場所になっているということを紹介していた。まさに私たちのNPO法人Mix upの目指すものだ。

 

ここでさまざまな人が交流することで、思いがけない効果が生まれているという。一例として、認知症のおばあちゃんが、自分の貰ったゼリーを首から下が動かせない障碍の若者に食べさせる話を紹介していた。若者はおばあちゃんの食べさせてくれるゼリーをうまく食べるために一生懸命首を動かそうとし、結果としてリハビリスタッフの働きかけより効果が出たのだそうだ。

 

食べさせる方のおばあちゃんは、「夜中の外出が多く」家族は疲弊していたが、「明日も行善寺に行ってあの子にゼリーを食べさせないとお腹を空かせてしまう」と思って翌日のために夜しっかり眠る日が増え、家族を悩ますことが減ったのだという。

 

現在このB’s行善寺を運営している雄谷さんは、祖父の始めたこの施設で子供の頃から障碍のある人たちと育った。経を唱えることで救われるのなら、経を唱えられない障碍者は救われないのかと悩んだが、何度も何度も法華経を読むうち「三草二木」の教えをやっと理解したと話していた。こういう真の仏教者が増えれば、救われる人も増えることだろう。番組では宮沢賢治の「アメニモマケズ」にも触れていた。

 

私たちのNPО法人Mix upは、「ごちゃまぜのみんなの居場所」となるべき拠点の、放課後デイサービスの第1号を大きな借り入れをしてやっと開設したところだ。資金も人手もないない尽くしの中で出発し、今も理事長は大変な毎日を送っている。理事の一人としてなんとか力になりたいが、金も力も特別なスキルもなく悲しい。

 

インスタグラム:Mix up(@npo_mixup) • Instagram写真と動画

ホームページ:特定非営利活動法人Mix up (google.com)

 

 

石川県白山市にある行善寺

いつもどこかしら痛いのが高齢者の日々

昨年の12月頃からの四十肩?五十肩?が、痛みは少し軽くなったもののまだ続いている。

hikikomoriobaba.hatenadiary.com

 

おまけに、先月あたりから左手は中指がばね指だ。手を洗う時もそっとしないと痛む。一番困るのは洗濯物を干す作業だ。なるべくシワなく干したい私は、ハンガーにかける時にかなりピンピンと洗濯物を延ばすのだが、左手は痛くて力が入れられないので、納得のいく干し方ができない。

 

右の肩やこの左手の指の痛みが治る頃は、たぶん別な個所に不都合が起きていることだろう。12月からずっと筋トレも変則的な形で行っているので、もとのパターンを忘れてしまいそうだ。

 

友人・知人など周囲の人と話しても、たいてい皆やはりどこかしら痛みや不調を抱えている。「そういうお年頃」なのだなとしみじみ・・・。90代まで生きないといけないとすると、こういう具合にいつもどこかしらの不調を抱えながら、だましだまし、なんとか自分の体と折り合いをつけつつ、生きていくことになるのだろう。それを忘れさせるくらいの楽しみを見つけられれば、長生きも楽しくなるかもしれない。

 

 

今日の夕飯はご近所さんに頂いたたけのこご飯。でも、老人会の例会で少々お菓子を食べ過ぎて、あまりお腹が空いていない・・・。

 

 

 

おしゃべりとリボン刺繍になぐさめられる

朝、友人からリボン刺繍の作品展への誘いの電話をもらった。あいにく午前中は予定が入っていたため、友人に調整してもらって午後からということで会場のギャラリー喫茶に出かけた。

 

まずはケーキとお茶を頼み、久々に会えたのでおしゃべりに花が咲く。とは言っても、高齢者の話だから楽しい話ばかりではないけれど。おまけに豊橋は今、例のアリーナ建設のため海のそばに移設される豊橋球場の発掘調査が始まっている。こうしてなし崩しに球場の自然は壊され、アリーナ建設は進んでいってしまうのか・・・と悲観的な話も出る(彼女の連れ合いさんは、昨年の住民投票条例のための署名集めにも奔走した)。

 

美味しいケーキを食べてポットの紅茶をたっぷり飲み(あ、デカフェではなかったが今夜寝られるだろうか。話に夢中でウッカリ普通の紅茶を頼んでしまった)、おもむろに作品を鑑賞。「リボン刺繍ときもののリメイク作品」ということだったので、ブログ友達のえむこさん(id:emukobb)を思い出す。もしや・・・と思ったけれど、違った。

 

大作のタペストリーやリメイクと思われるケープ、リボン刺繍した帯などどれも素晴らしい。また小品の野の花を一輪刺した額も素敵だ。

 

会場に撮影禁止の表示はなかったが、店員さんに聞いてもはっきりしなかったため小品をひとつだけ掲載。

 

その方のサイト:

リボン&リメイク 金子通世

 

 

出不精の私が、珍しく重い腰を上げて、来月あたり恩人にも会いながら東京に出かけようかと考え、来月刺繍の作品展をする姉に、その恩人のNさんが今も作品展にお見えになっているかを聞くと、昨年亡くなったそうだという返事だった。

 

コロナ禍だったとはいえ、なぜもう少し早く出かける決心をしなかったかと激しく悔やまれ、昨夜はちょっとつらかった。

 

今日になってもまだ少し昨日の気持ちを引きずっていたのだけれど、友人が声をかけてくれたことで救われた。母に似た体質の私は、長生きしなければならない運命のような気がしているが、高齢者の1年の重みは若い頃のそれとは比べ物にならないから、来年の今日、今年と同じように自由に外出できるとは限らない。

 

そのうちそのうちと言ってはいられない。行きたいところへは行き、会いたい人にはさっさと会わなければいけない。と、今は強くそう思っている。

 

 



 

「NHKでやらなさそうなアレ」とは?

番組表によると、今日の深夜というかもう日付が変わってからだけれど、NHK総合で『NHKでやらなさそうなアレ』という番組を放送するようだ。深夜帯とはいえ、番組のタイトルである。「やらなさそうな」!

 

NHKのサイトでも堂々と番組の宣伝で取り上げている。

www.nhk.jp

 

アナウンサーのしゃべりの質が低下して、標準語の手本として参考にならなくなっているのはもうずっと前からだけれど、NHKはいったいどこまで低レベルになってしまうのか。

 

3月の下旬には、朝のNHKニュースの中で、自社の番組宣伝として「夜9時のニュースが一新」と紹介していた。画面の文字でもそう表記され、ナレーションもその通りだった。せめて表記は文字数を減らすためこうなってしまったとしても、ナレーションくらい「一新されます」と言えなかったか・・・。どうしても「一新」と体言止めにしたいのなら、「ニュースを」と助詞を「を」にしてほしいと思ってしまう。

 

文語調の表記が一般的だった昔なら「ニュースが一新さる」と、きっと「が」という助詞ならそれに呼応して受身表現にしたことだろう。今はこうした言い回しは使わないので、それならそれで助詞に注意を払ってほしいのだけれど、もうほとんどこのNHKのような表現しか見られないと言ってもいいほどの状況になってしまった。

 

NHKに就職するのは簡単なことではないだろうと思うが、この程度の日本語をきちんと書ける人もチェックできる人もいないのだろうか。それともこれらは全て下請けの下請け、NHKの責任ではないのだろうか。いや正社員の仕事だろうと何次の下請けの仕事だろうと、外部から見れば全て「NHK」なのだけれど。

 

 

ちょうど今日cangaelさんがアスリートがよく口にする「感動を与えたい」という言葉について書いていらした。

cangael.hatenablog.com

 

これも、見たり聞いたりするたびゾワゾワと嫌な気分になっていた言葉だ。初めはおそらくマイクを向けられたアスリートが思わず口にしてしまったのだろうが、それを陰でそっとたしなめる大人がおらず、しかもあろうことかマスメディアがまるで立派なことを言ったかのように讃えてしまったため、流行し、定着してしまったのだろう。

 

まあ、たかが言葉である。通じればいいと考える人もいる。またアニメ人気などの影響か日本語を話す外国人も非常に増え、ネイティブでない日本語話者が増えれば、簡便になり文法が乱れていくのも当然の成り行きだろう。

 

でもだからこそ、その芯にはまともな日本語を話す人たちがいて欲しいと思う。人間は言葉で考える生き物だから、緻密な言葉を扱え、感じ取れる文化を残したい。知らずしらず周囲に流されていってしまうけれども、今はまだ言葉に対して、思わず嫌だなとかザラっとした感覚を覚えてしまう自分の感覚を大切にしたいと思っている。

 

 

悲しいかな、味には大雑把です。