タイトルに惹かれて久々に日曜美術館を見た。放送されたのは5月3日。私は例によって録画で視聴。
その本は、15世紀に作られた「ベリー侯の豪華時祷書」。羊皮紙206葉でなり、1頁のサイズが29x21cm。時祷書とは「キリスト教徒が用いる祈祷文、賛歌、暦などからなる聖務を記した日課書のこと(Wikipedia)」。まだ印刷技術のなかった時代で、絵はもちろん、文字も一文字一文字手書きされたものなのだという。
挿絵は、1年12か月の月ごとの中世の暮らしが、金やラピスラズリなど高価な顔料を使って驚くべき細かさで描かれている。
Wikipediaより1月の絵。テーブル席の右から2番目、青い衣服の人がこの本の注文主のベリー侯。(「こう」はNHKでは「侯」、Wikipediaでは「公」を使っている)
たしかに豪華極まりない本ではあったけれど、美しいかどうかというのは、人によって見方が分かれるように思う。思えば「美しい」という言葉は、とらえどころのない言葉かもしれない。
ちょうど昨日、「美しいことについての 感覚のまるでないひとたちが、日本の政治や経済を動かしているところに、いまの世の中の不幸がある」という花森安治氏の70年前の言葉を紹介しているツイートを見かけた。75年経っても、この花森氏の嘆きは相も変わらずこの国の少なからぬ民の嘆きであり続けていて、進歩のなさに改めてうんざりする。
美しいことについての
— たれうやや@反戦反核ふ那っ覇ー(梨) (@tareuyaya) 2020年5月7日
感覚のまるでないひとたちが、
日本の政治や経済を動かしているところに、
今の世の中の不幸がある。
「服飾の讀本」花森安治 https://t.co/WoWq5KnnD3
いちおう、かの首相も『美しい国へ』などという本をものしていて、「美しい」日本を目指しているらしい。しかし、花森氏の「美しい」と首相のいう「美しい」との間には、何億光年もの隔たりがある。
「世界で一番美しい本」という、ある程度普遍的な選択であるから、多くの人がため息をつきそうなこの豪華な本ということになるのかも知れないが、私個人にとっての美しい本とは、やはり先日も触れた『星の王子さま』のような、精神性の高いものをあげたい(もちろん、時祷書はキリスト者にとって精神性も高いものだろうけれど)。