あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

緑に染まりながら

自治会の用事で近くの金融機関へ。よくウオーキングに行くなまず池の公園が途中にあるので、帰りに寄ろうと思い本を持って出る。

 

今日は入金だけなのですぐに片付き、それから公園に行って、日陰になっているベンチを探して本を読んだ。池のほとりのあずまやには、賑やかな子連れのグループがいて、広場でボール遊びなどをしている親子もいたが、解放空間では声も四方に散っていきさしてうるさくもない。

 

 

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前回の『池畔で読書』の公園の池は現在は干上がってしまっているが、このなまず池は水をたたえている。冬場は水量が大分減っていたが、いまはたっぷりとしている。

 

今日は風もないので、たいして長い時間ではないが落ち着いて読書ができた。なにしろこのところ、ちょっと目を離すと問題の人たちが何をしでかすか分からない雰囲気なので、Twitterやニュースの点検のためおちおち本も読んでいられないのだ。

 

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こんな緑に染まりそうな環境の中、苔むしたベンチに座って、

(・・・昔の日本の家屋についての記述)瓦は瓦で一枚一枚丁寧にはがし、古瓦ですが使用に耐えうるかぎり安建築用に再利用したのです。柱も桁(けた)も貫(ぬき)もすべて木材部は解体し(解体しうるように組み立てられていました)、もう一度別のところで組み立てて使いました。

 家屋はそんなふうに、自然に対して解放され自然とともにあると同時に、解体再利用されうるものとしてもあったわけで、われわれの祖先はおよそものをムダにすることがなかったのです。

 われわれの祖先は自然と同化し、自然の中にあってその幽気にひたることを好んだのです。・・・(略)・・・われわれの感性はこういうふうに自然と同化することをよしとして来たのです。シェーンブルン宮殿のように、自然を征服し従わせるのをよしとはしなかった。人間も樹木も鳥も獣も、生あるものはすべてわが同類である。同じ仏性の中にあるものであると感じて来たのです。(中野孝次著『清貧の思想』)

こんな文章を読むのは非常に好ましく、現在の金まみれ欲まみれのこの国で暮らす精神の汚れが、洗われていく心地がした。