あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

8年前のぼんくらによる感想『ぼんくら』宮部みゆき著

梅雨の晴れ間。青空が嬉しい。

 

今日は8年前に綴った読書記録を、スターが一つもないのをいいことに再掲。読み返してみると、随分文章の雰囲気が違っていて自分でも驚く。敬体で書いているのも影響しているのかも知れないけれど、なんだか拙く(今だって拙いが)、自分の妹(妹も弟もいないが)か娘が書いたように感じる。

 

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2012年7月22日

通勤読書用にと金曜日の仕事帰りにBOOKOFFで買った宮部さんの『ぼんくら上・下』。おもしろくてついついこの休みのうちに読んでしまいました。

宮部さんの作品の面白さは、ストーリーはもちろんですが、やはり登場する人物が端のほうの人まで生き生きと描かれ、かつその人物像が魅力的なところだなと改めて思いました。この作品の主人公は本所深川の同心、井筒平四郎ですが、その平四郎に淡い思いを抱いている、煮売屋のたくましいおばちゃんお徳さんがとても魅力的です。お徳さんの住んでいる長屋に新しい差配としてやってきた佐吉さんもいい。平四郎の奥方も出番は多くないのに読む者の心にしっかり入ってくるし、奥方の甥っ子で養子にと望まれる12歳の弓之助もかなりな存在感です。

そうした人々の人物像が「面倒見が良い」とか「優しい」とか「ちゃめっけがある」などといったありふれた言葉ではなく、その人物の行動や何気ないせりふで描き出されるところがとても好きです。しかもいつも作品に登場する人々の大半は憎めない人々で、本当に悪意の人間はごく少ない。それでも人が殺されてしまったり(ひとりも死なない上質ミステリーも宮部さんの作品にはあるが)するところに人間社会の悲しさや難しさもうまく捉えられているように思います。生まれながらの悪人なんていないはずですから。

ただ、ごくまれに言葉の使い方で引っかかってしまうことがあります。以前も江戸物でとてもいい作品でしたが、登場人物が「とんでもございません」と言う場面があって、江戸時代にもうこの誤用が生まれていた?と思ったことがありましたが、今回は「かわたれ時」という言葉が夕方の場面で二度使われていて、あれ?私は確かかわたれ(彼は誰)は夜明け前の暗さ、たそがれ(誰ぞ彼)は日暮れ時の暗さを表すと習ったけれど・・・とひっかかりました。

そこでいつものようにネットで調べましたら、古くはどちらも日の出前、日没後の薄暗い時に区別なく使われ、後になってかわたれは朝方、たそがれは夕方と使い分けるようになったということのようです。で、江戸時代はまだ区別なくどちらにも使われたと納得することにいたしました。


昨日の土曜日は母の足のマッサージに行き、今日は神奈川から姉が来たので墓参りと母の面会に二人で行きました。ホームではちょうど今月生まれの方の誕生日会ということで、西瓜割りなどの催しがあり、新しい仲間の紹介で母も紹介されていました。本2冊も読んでしまったりなかなか充実した週末でしたね

 

追記:あと、権吉のルビが上巻では「ごんきち」なのに下巻では「けんきち」になってました。ちょっとしたことだけど、私は結構こういうのにがっくりきます。校正、ちゃんとしてるのかなあ。。。

 

 

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いつものことながら、結構内容を忘れてしまっているので、今日また市民館で本を借りてきてしまったが、それが終わったら、また『ぼんくら』を読み返してみようかという気になった。