あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

理想の生活『ビトウィン』川上健一著

著者の川上健一さんは青森県十和田市の県立十和田工業高校を卒業、高校時代は野球部で投手として活躍し、プロ野球選手を目指していた。二十歳前後まで漫画以外の本は読んだこともなく、自分は机に向かう仕事には向かないと思っていたと言う。

 

そんな川上さんが、肩を壊してプロ野球選手の夢が破れ、上京して何か夢中になれるものはとさまよう中で、突然小説を書こう!と思うに至る。締め切りでもないとダラダラといつ書きあがるか分からないので、ちょうど募集していたコンクールに応募するという目標を作って出したところ、賞を取ってしまった(1977年小説現代新人賞)。

 

その後「小説家」という肩書で文章を書いて暮らすが、小説家は本当にやりたいことが見つかるまでの腰掛と思っていて、食べられるだけしか書かず乱れた生活を続け体を壊す。10年のブランクののち、再び書いた小説がまたその年のベスト1に選ばれ、同時に坪田譲治文学賞まで取ってしまうという、もう物語の神様に愛されているとしか思えないような人だ。

 

その「書けなかった」時代の、超のつく貧乏生活ぶりを描いたのがこの作品だ。健康のために医者に勧められた冷涼地、山梨に一家して転居、自給自足生活を送る。筆者が釣りで成果をあげられないとその日のたんぱく源はなくなるという、常に「手元不如意」な日々だ。どうしても現金が必要になると、庭の花をポットに植えたものや家じゅうのガラクタなどをフリーマーケットで売って作る。

 

 こんなカツカツの生活をしながらも、一家は愛にあふれ笑いがあふれている。筆者以上に底抜けに明るい妻が非常に魅力的だし、「うちのパパは沖縄に連れて行ってくれた」とか「パパからお誕生日に自転車と腕時計をもらった」とパパ自慢をする友達に、「ヅキのパパは朝起きると必ず『おはよう!』って笑ってくれるし、夜眠る時も必ずムギューッて抱きしめて『ヅキ大好きだぞ、おやすみ』って言ってくれる」と自慢する娘さんのさづきちゃんがまた、たまらなく可愛い。

 

筆者の周辺の友人たちもなんだかのらりくらりと生きているような魅力的な人間ばかりで、ああ、こういう生物的な時間が流れ、温かな交流のある生活はやっぱり最高の贅沢だなと感じる。でも、物質的に満ち足りた生活は誰とでもある程度はできるかもしれないが、こういう貧乏生活は、どんな相手であるかが非常に問題だ。特別にピッタリの相手に恵まれた幸運な人しか、味わうことのできない人生だろう。

 

川上さんのデビュー作や、10年のブランクのあとの作品を読んでみたくなった。

 

 

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表紙と本文中ののどかな挿し絵は南伸坊さん。