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たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

この世界にアイは存在するか『i(アイ)』西加奈子著

「この世界にアイは存在しません」。高校の数学の最初の授業で教師の言った言葉が、その後ワイルド曽田アイの頭の中に響き続ける。

 

アイにはアメリカ人の父ダニエルと、日本人の母綾子がいる。アイ自身はシリアに生まれ、ハイハイを始める前に両親のもとにやってきた。養子である。小学校卒業まで、ニューヨークはブルックリンハイツの高級住宅地で育ち、中学入学時に日本にやってきた。

 

裕福なアイの養父母は、アイの自由を尊重しあふれんばかりの愛情で包んで育てるが、アイは常に自分の代わりに「選ばれなかった不幸なシリアの子供」に後ろめたさを感じているような子供だった。

 

さらに、世界中のあちこちで日々起きている悲惨な事件や事故を知るようになると、その事柄と亡くなった人の数をノートに記録するようになる。何不自由ない幸せな生活をしていながら全く心の平安を持てず、それでも両親にそれを気付かせまいとする繊細な子供だ。

 

アメリカにいた時から家庭教師を付けて日本語を勉強していたアイは、日本の中学でも素晴らしい成績で、都内有数の進学校に進む。いつも世界の不幸な人たちにばかり心をとらわれているアイは、同年代の友人たちから浮いた存在だったが、高校で初めてミナという親友ができる。ミナも婿を取って家業を継げと言われていること以外は、裕福で恵まれた商家の娘だ。彼女は同性愛者だったが、アイとは強い友情で結ばれる。

 

物語は、2001年のワールドトレードセンタービルへの航空機の激突から、2015年のボートの転覆で死んだシリア難民の3歳のアイラン・クルディまで、実際にあった事件や事故の記録をはさみながら、アイの大学・大学院生活、結婚と不妊治療までを描いていく。

 

人類の半分、いや三分の一でも、アイやアイの養父母のように困難な状況にある人のことを思いやれたら、この世界は一変することだろうと思うけれど、アイにしても養父母にしても、自分たちは特別に恵まれていて何不自由ないところにいるからこそ、そうした思いやりや想像力が持てるのかも知れない。

 

残念なことに、世界中の人々の大半は、そうした平安な状況にない。富や権力のあるものの多くは、その富や権力を脅かされないかと恐れ、できればさらに増大させたいと頭を悩ませる。病に苦しむものや日々の生活に追われるものは、まして言うまでもない。

 

そういった点で、この物語の登場人物はいささか浮世離れした人ばかりで現実味にかけるが、その分挿入される実際の事件や事故の悲惨さがより際立って迫ってくる。とりわけ終盤のアイラン・クルディの悲劇は、著者の文章の力もあって胸を突く。

 

世界のどこかで起きている悲劇は、決して他人事(ひとごと)ではない。差別もむろんだ。かつてのアイのように自分を削ってしまうほど思い悩んでもいけないが、そうした人の存在を、いつも心の隅に留めておきたいものだと思った。

 

 

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著者による装画