あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

『この地上において私たちを満足させるもの』乙川優三郎著

深い感動と余韻に包まれて本を閉じた。物は増やさない、本も増やさないと思っているのに、この本はぜひ蔵書に加えたい気がする。

 

主人公は高橋光洋。本名はミツヒロであるが、親しくなった人は愛情を込めてコウヨウと呼ぶ。実家は東京の下町で小さな食堂を営んでいたが、戦争で千葉に疎開し、借り物の畑地を耕し細々と暮らす。

 

兵隊にとられた父親が片足を引きずる虚無の人となって復員し母親は狂喜するが、かえって一家の生活はより苦しくなり、収穫した野菜や子供の光洋が採った貝などを行商する母の肩の荷はさらに重くなる。

 

そんなギリギリの生活の中で、怠惰ながら長男として重んじられる兄と違って、光洋は忙しく働かされるばかりで肉親の愛を感じることがなく、自立の意志を強くしていく。

 

高校を卒業して寮のある製鉄所に就職し、家族に仕送りしながらも貯金のできる生活をするようになるが、やがて労働問題に巻き込まれ会社を辞めることになる。光洋を巻き込んだ首謀者は、その事件をきっかけに政治家の秘書となり、光洋は苦い思いをかみしめる。

 

退職で得た金で光洋は流浪の旅に出、パリでは絵描きを目指す日本女性の部屋の居候となり、スペインでは妹と身障者の弟がいる「乞食」を生業とする男の世話になる。ポルトガル、インド、タイを経てフィリピンに渡り、独裁者が戒厳令を布いている国の庶民の貧しさを見る。

 

貧困の中で育った主人公が、放浪の旅の中でもまたそれぞれの国の下層であえぐ人たちと共に暮らし、助けられたり助けたり、さまざまな刺激や影響を受けていく。

 

やがて帰り着いた日本で、好きだった「書く」ことを仕事にするようになる。賞も受賞するが、ただ売れる作品を書けず良い文章・作品にこだわる彼の生活は、裕福とは言えない。高校生の頃発症した心臓の病に加えガンにもなり、60代になった彼の生活はなげやりとも言えるものだ。

 

そんな彼の暮らしを知ったフィリピンのゆかりのある女性から、援助が届く。身の回りの世話をするソニアという若い女性がやってきたのだ。報酬が払えないという彼に、その女性は昔光洋に大きな恩を受けたから、そんな心配はいらないと言う。ソニアは教育はあまりないが知的で向上心に富み、驚くほどのスピードで日本語を学習し、光洋の気持ちを変えていく・・・。

 

 

主人公の作家が小説の質を追求するように、この作品自体も作家の非常に厳しい姿勢を感じさせる。昨今の口述筆記ではあるまいかと思えるような軽い文章と、会話文の乱用でスカスカのページと違い、徹底的に無駄をそぎ、研ぎ澄まされた文章がぎっしり詰まっている。249ページの作品だけれど、その二倍、三倍の読みごたえがある。

 

そして、『この地上において私たちを満足させるもの』。このタイトルが胸にしみてくる。読み終わって一日経っても、この文字を目にしたり考えたりするだけで胸が締め付けられ、じんわりと涙がこみ上げそうになる。

 

著者乙川優三郎さんに「素晴らしい宝石をありがとう!」と言いたい。

 

 

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