あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

立花隆さんとシベリア抑留

放送されてから1週間ほど、録画を見てからも何日もたってしまった。こういう重たいテーマを取り上げようと思うと、気力体力が充実している必要がある。まだまだ少々気持ちは渋っているのだけれど、いいかげんまとめておかねばと思う。

 

番組は1995年に放送されたもの。立花氏の死去に伴って再放送となった。先の戦争時シベリアに1年半抑留され、35歳でシベリアから帰還し、62歳で亡くなるまでシベリアでの体験を描き続けた画家香月泰男について立花氏が語っている。

 

印象的な黒い画面の香月の作品からも、十分シベリアでの体験の深刻さが伝わってくる。日本兵のシベリア抑留については、今まで何かしら見たり聞いたり読んだりして、寒さや重労働などの過酷さについてはいくらかは知っているつもりだったが、先月井上ひさし氏の遺作『一週間』を読んで、初めて知ったことがあった。

 

それは、ソ連軍が日本兵の捕虜収容所を運営するにあたって、統率を簡便にするため、日本軍の上下関係を利用したということだ。もちろん、収容所によって、統率するソ連軍の人柄も違い、また収容された日本の軍人の上層部の人柄によっても違いはあったようだが、多くの収容所で、捕虜となっても 軍の上下関係が引き続き、下士官の食料のピンハネやいじめが横行し、ソ連側の扱い以上に、日本の下級兵士は苦しめられたということが書かれていた。

 

捕虜の扱いについて規定しているジュネーブ条約を把握している捕虜収容所では、それを盾にソ連側と交渉し、ちゃんとした食料や労働条件を得て、餓死などということは避けられたようだ。しかし、悲しいことに、日本の兵士は上層部の者でもこのジュネーブ条約を知らないものが多かった。「生きて虜囚の辱めを受けず」と教える日本軍には、そもそも不要な情報だったのだろう。

 

刻々と情勢の悪化する満州で、情報の早い上層部の者からさっさと逃げ出し、何も知らない民間人は全く護衛もない中に取り残され、自己責任で逃げるしかなかった。当時の軍上層部の描写があまりにも現在の政権のやり方と重なって、この『一週間』という作品を読みながら、私はしばしば現在の日本についての話を読んでいるような錯覚に陥った。

 

 

香月泰男氏は1911年に生まれている。私とは40年違いだ。あと40年早く生まれていれば、いや、戦争末期には18歳で片道切符の戦闘機や魚雷に乗せられているのだから、ほんの二十数年早く男として生まれていたら、私も戦争に駆り出されていたかもしれない。

 

あのひどい戦争で家も親も失って裸で放り出され、自己責任で生きてきた人たちがたくさんいる現在の日本。それでも国の責任を訴えて戦った人は少ない。今またあの頃をほうふつとさせられると少なからぬ人々が言っているが、オリンピックでコロナウイルスが蔓延し病院などが相当な惨状になっても、あの戦争でさえ責任を追及せず忘れてしまった日本人は、おそらくマスコミに乗せられオリンピックの結果に一喜一憂し、この感染症の惨禍を直視せぬままやり過ごしてしまうのではないかと恐れる。

 

 

 

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私はこのところ欠席させてもらっているが、このたびまたまた私たちが取り組むことになったハガキ作戦。これをメディアに送って粘り強い報道を応援するという。

 

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昨日の仲間たちのスタンディング。集まったのは撮影時のみ。ディスタンスをとってサイレントスタンディング。