このところ気になっている著者の最新刊。リクエストしていたものが届いたと市民館から連絡をもらい、受け取って一気に読んでしまった。
最初に読んだ『光の犬』は大作だったが、今回の『泡』は、二冊目に読んだ『沈むフランシス』と同じくらいの、200ページに満たない中編と言ってよい作品だ。
時代設定はまだ現在のような使い方での「いじめ」という言葉もなく、「ひきこもり」という言葉もなかった70年代あたりかと思う。主人公は私立の男子高校に、2年になって間もなく通えなくなった薫。両親はともに教師。薫が夏休みの間身を寄せる先に選ぶ大叔父の兼定はシベリア帰り。その大叔父が経営するジャズ喫茶で働く岡田という青年は、時代背景から考えるにヒッピーあがりのような印象を受ける。
薫は特にいじめの標的になったというのではないようだが、剣道の防具になじめないようすや、人と話すときなどに緊張するあまり空気を飲み込み過ぎて、それが腸にたまって苦しくなる「呑気症」を異常に気にする傾向などから繊細な神経の持ち主と思われ、思春期の男ばかりの集団にはいかにもなじめそうもない。
兼定は過酷なシベリア抑留から幸運にも生きて祖国に戻ることができたものの、すでに両親はなく、薫の祖父に当たる長兄の鍬次郎始め親族にも「アカ」と見られ持てあまされる存在だ。この兼定のシベリア体験にも、日本軍属の上下関係が俘虜統率に利用され上官の暴力が日常茶飯だったという記述があり、井上ひさし氏の『一週間』と同様の読書体験が続くことに不思議な感慨を覚えた。
ある日ふらりと兼定の店に現れ、手伝うようになる岡田という男が魅力的だ。背景は最後まで謎なのだが、そこがまた陰影を濃くしている。薫とは本当にふと人生が交錯するだけの他人なのだけれど、多感な年ごろの少年に大きな影響を与えていく。
兼定の喫茶店自体が大した利益を生み出しているものではないし、そこで手伝いをする岡田の人生もつつましいものだ。そこから影響を受け、少しばかり呼吸が楽になったからと言って、薫の今後の人生が輝かしいものになるとも思えない。けれども、人生の意味とか、生きる喜びというものが、そもそも大方の人にとって、このようなささやかなものなのではないだろうか。
出会う人や音楽などによって、人は救われていく。描写の達人の著者の腕は、今回はジャズと泡に振るわれている。ロックは運命共同体だが、ジャズは一人ひとりが独立していながら影響しあっていくというとらえ方が興味深く、テーマと響きあっているように思う。泡は浴槽の中の、空気中の、海中のとさまざま出てくるが、浜辺で、最後の白いレースのようになった波が足元の砂をすくって引いていく時、海水が砂に吸い込まれ、ぷつぷつとつぶれながら消えていく小さな泡の描写が印象に残る。
最後に、シベリアの収容所で兼定が所長に言われた言葉を書き留める。
「おまえは捨てられたんだ。天皇政府に。敗戦になって、日本人がこんなに溢れるほどロシアにいるのはなぜか知ってるか。天皇政府が早く帰せと要求しないからだ。臣民を敵国に残したまま、知らぬふりを決めている。いま帰ってきてもらっても困る、そういうことじゃないかね。おまえたちを食べさせる余力は天皇政府にはないんだと」
昔も今も、そういう国に私たちは住んでいる。