あとは野となれ山となれ

新しい年に少しでも希望の光がさしてほしいと願います

有𠮷玉青著『車掌さんの恋』より「きせる姫」

電車をテーマにした5つの短編からなる『車掌さんの恋』。発行は2004年と、21世紀であることが意外な気がする。ピンクのはんなりした雰囲気の装丁も、のどかな感じのするタイトルも、もっと古い時代を思わせ、私など、昔バスに乗ると小さな帽子をちょっとお洒落に斜めに頭にのせて、おなかの所に黒い大きながま口のようなバッグを下げ、バスがバックするときには機敏に降りて、後ろからピーッ、ピーッと笛を吹いて誘導する女性の車掌さんをイメージしていた。

 

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乗務員として、通学者として、旅行者として、通勤者として、それぞれ電車と関わる人の小さな物語が紡がれる。何気ないけれど、琴線に触れる話が揃っている。

 

なかでも、女子高校生を主人公にした『きせる姫』が心に響いた。

 

女子高の2年生である倉島湊は、たいていクラスで一番の成績なのだが、この日、いつも通りテストを成績順に返す教師が、湊の名を呼ぶことはなかなかなく、なんと後半の平均点以下で順不同の生徒の中に入っていた。

 

湊の家では、真面目だった父親が突然失踪し、何日かのちに、一緒に暮らしたい女性ができたので許してほしいという手紙と離婚届とが、母親の元に届いた。やがて母親も家を出て行ってしまい、以来湊は母方の祖母と暮らしている。テストの直前にそんなことがあって、今回、湊は勉強が手につかなかったのだ。

 

学校のあと予備校に行くある日、回数券を切らしていたことに気付いた湊は、定期入れの中に入っていた入鋏済みの券を発見し、いたずら心からそれを使ってしまう。難なく改札を通過でき、その後湊は髪にパーマをかけたり、一度使った回数券をとっておいてもう一度使う、さらに予備校までの正規の運賃ではなく最短距離の駅までの券にしてキセルの行為をエスカレートさせたりするようになる。

 

湊には同じ中学からその女子高に入った尚子という友人がいる。バスケットボール部のエースである尚子は、テストはいつも平均点以下の順不同組だが、校則も適度に外しながら自由に生きている気がして湊は少し羨ましい。

 

ある日駅員にキセルを発見され、駅員室でビックリするような罰金を告げられる。お金をとってきますと家に帰るがとても祖母には言えず、尚子に相談すると、一緒に行くからとにかくもう一度謝ってみようと言い、尚子は駅員に湊が優等生でキセルなんかをする人間ではない、ほんの出来心だったのだから許してほしいと謝ってくれる。

 

結局一回分の往復の運賃で放免され、帰りの電車の中で、「湊は勉強もできて素直でずるくなれない本物の優等生で素敵なんだから、キセルなんてどこかのおじさんのようなせこいことしちゃだめだよ」と尚子に言われる。

 

ただ頑張って勉強するから成績がいいだけで頭がいいわけじゃないし、尚子のように自由に生きる勇気もない自分を情けなく思っていた湊は、尚子に自分を肯定されて今回のことを心から反省し、「ごめんね、ごめんね」と尚子に謝る・・・。

 

親の期待に応えずにいられない湊という少女。それが突然父親も母親も娘より自分の人生を選んでいなくなってしまう。その所在なさがパーマをかけたりキセル乗車をしたりというささやかな逸脱を引き起こす。世の中にはここから本当の転落に至ってしまう子供もいることだろう。

 

湊の描き方も良いが、尚子という自然体の少女が魅力的。そうして、この二人のさらりとした関係が、青春という苦いけれども何とも言えない貴重な時代の味わいをうまく表現してくれていて心に残る。

 

ところで、改札で鋏を入れるということもなく、ピッとかざすばかりの現代では、キセルなどという行為も言葉も、もうないのだろうか。