あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

素敵な夏の日の冒険『サマーバケーションEP』古川日出男著

ちょっと癖のある文体で書かれているので、これに馴染めるかがこの本を読み進めるかどうかを分けるだろう。私も読み始めてしばらくすると文体にあてられたような気分になってしまい、本を置いた。先が知りたいからと言って、一度にあまりたくさん読まず、ゆっくり読み進めることにした。やがて慣れてしまったけれど。

 

主人公は20歳を過ぎてようやく自由行動を許された「僕」。人の顔が識別できないという特徴を持っているのだが、どうも読んでいると彼に欠けているのはそれだけではないように思える。全編が他の登場人物の会話と、この「僕」の心のつぶやきで綴られている感じだ。

 

だから、非常に平易な文章で、しかも会話文の中には「げろキモ」だの「マジ」だのといった現代風の言い方がいっぱい出てくるし、「食べ物と飲み物がいろいろ売っています」などという箇所もあるけれど、「僕」の語りなのだからと大目に見る気分になってしまう。

 

人の顔が識別できない「僕」は、相手の体温や声や匂いから年齢や人柄を感じ取る。それは非常に細やかで、顔が識別できると思っている私などは、いかにそのことに頼り過ぎて、見るべきものも感じるべきものも落としていることかと思わされた。

 

一人で出かけられることになって、「僕」は初めての冒険の場所として井の頭公園にやって来る。そこで23年の人生を仕切り直したいと、ガムシャラに働いてむりやりまとめて休暇を取ったと言う男性ウナさんや、死んだ人かとビックリするほど声の体温の低い女性カネコさんに出会い、「この公園の池でボートに乗った恋人同士は、別れることになる」という話を知らずに乗ってしまい、「呪いにかかってしまった!」と真剣に悩んでいる、イギリス人の男性とへそ出しルックの日本女性のカップルとも一緒になる。

 

井の頭公園の池には「ココガ神田川ノ源流デス」と書かれた看板があり、神田川はやがて隅田川と合流し海に流れ着くと知った「僕」は、その源流から川をたどって海まで行くことを決心する。それにあとの4人も加わって、5人は歩き出す。

 

途中出会う3人の小学生の男の子や、40代と思しき「おじさん」と、その知人である中国人の双子「北京さん」と「広東さん」も加わり、一行は11人という団体になり神田川沿いの遊歩道を、時には住宅街の路地を行く。

 

「僕」の観察する道中の様子がずっと綴られるので、現地を知っている人はさらに楽しいかもしれない。私は時々「〇〇公園」だの「〇〇橋」だのをインターネットで検索して情景を想像した。

 

やがてJR東中野駅という地点で、絵日記に書くことは十分できたと小学生3人は離脱する。

 

別れた妻と暮らす息子にも会えず、不審な行動をとっていた情けない「おじさん」と思っていた人が実は大会社の社長さんで、途中の公園で、食べきれないほどの思わぬ豪華な食事のテイクアウトデリバリーを彼から振る舞われ、ちょうど公園にいた自転車の中学生8人にも食べさせる。すると彼らはその恩返しにと、「僕」たちを自転車に乗せることを申し出る。人力で走る自転車なら、皆さんの趣旨にも反しないだろうと。

 

こんな風に人数を増やしたり減らしたりしながらも、神田川沿いの冒険は進む。あとはこれからお読みになる方のために省略。

 

 

こんな冒険もあるのだと思い知らされた。ここまで大規模なものは無理だけれど、天気の良い日に、ちょっと大変かなというくらいの目標を決めて歩くことなら、予定や予約が苦手な上に、近頃は寝床が変わると安眠に苦労する、出不精の私にもできそうだ。

 

小学生たちは言葉遣いはひどいが、憎めなくてかわいい。中学生、特にリーダーの子など非常にしっかりしていて知識も語彙も豊富、他の地域の中学生との対決なども実にスマートで、いま野蛮な手段で相手を意のままにしようとしている大人に、爪の垢を煎じて飲ませたいほどだ。

 

離脱せず読み通して本当に良かったと思うさわやかな物語で、「僕」の未来に幸多かれと願わずにはいられない。

 

 

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