あとは野となれ山となれ

たいせつなものは目に見えないんだよ

マスコミよ死に給うことなかれ

今回の元首相銃撃事件について、マスコミはこぞって「暴力で言論を封じることは許されない」と言いたて書きたてました。では、権力や金で封じることは許されるのでしょうか。

 

銃のような圧倒的な力に対抗するのは大変なことです。警備体制がうんぬんされていますが、たとえ今回の事件が首都で起こったとしても、防ぎ得たかどうかは分かりません。けれども、後者の力に対抗するのも、弱いもの、貧しいものには、非常に難しいことです。

 

私は2015年以来、細々と市民活動を続けてきました。自分自身は不自由なく暮らせているし、年金もこのままいけばなんとか逃げ切ることのできる世代です。それでも、社会の秩序や価値観を破壊するばかりで、新しいものを創り出せなかった団塊世代のすぐあとの世代として、このままの社会を若い世代に引き継ぐことは出来ないという責任感に突き動かされてきました。

 

しかし、2015年の安保法制に反対する運動では、国会議事堂前から最寄りの地下鉄駅までを埋め尽くすほどの人々が集まって声を上げたにもかかわらず、大手マスコミにはほとんど報道されませんでした。そのあとは何をしても推して知るべしで、活動はいっこうに手ごたえを経験できず、糠に釘を打つごとく無力感の連続でした。

 

マスコミの応援なしにする市民活動は、非常に弱いものだということを痛感します。それだけに、7年前よりさらに悪化している現在の報道状況に、暗い気持ちにならざるを得ません。

 

マスコミの現場にいらっしゃるみなさん、考えてみてください。あなたがその仕事を志した理由は何でしたか。安定や報酬でしたか。今、あなたは自分が書きたかったような記事を書けていますか。作りたかったような番組を作れていますか。

 

30年くらいの未来に、令和のあの憲法改悪へとなだれ込んだ時代に、マスコミの中にいて、自分はこんな仕事をしたのだと、愛する人や大切な人に胸を張って話せますか。

 

 

マスコミは弱い立場にいる人々の声を掬い上げることが、大切な役目の一つではないでしょうか。民主主義は民衆が判断に必要な、間違いや偏りのない情報を得てきちんと考えなければ機能しないシステムです。現在のこの国は考えない大衆が多くなっているように思いますが、そもそも考える前に、必要な偏らない情報が届いているとは到底思えません。

 

ネット上には、「安倍元首相が悪いことをしたから撃たれたと言うが、それならとっくに逮捕されているはず。逮捕されないというのが悪いことをしてない証拠だ」という意見があります。その捕まえるはずの人も、裁くはずの人も、みな権力者の息がかかってしまっているのだということを、一般の多くの人は知らないのです。

 

今回の事件の容疑者も、弱く貧しい立場にあったようです。犯した罪はもちろん許されるものではありませんが、彼も安定した仕事や心安らぐ居場所があったなら、犯罪者にはならなかったのではないでしょうか。

 

結果論であり「たら・れば」でむなしいのですが、もっと適切な時点で報道が政治と宗教の問題を追及していたら、元首相のさまざまな職権濫用の罪を追及していたら、今回の事件は起こらなくてもすんだのではないでしょうか。

 

10年後、20年後、このようなむなしい「たら・れば」を繰り返さなくてもいいように、せっかく世の中に影響を与えられる仕事に携わっているみなさんに、心からお願いを申し上げたいのです。

 

どうか、あなた自身が胸を張れる、本来の仕事をなさってください。もちろん、今の仕事がそれであると言われるのであれば、もう致し方ありませんが・・・。

 

 

 

(多言語のススメさんのサイトより)