あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

物語りは悪くないのに引っかかってしまった『まっとうな人生』絲山秋子著

双極性障害を持つ主人公しずかが、まだ故郷の九州で生活していた頃に、入院中の病院で知り合った名古屋出身の「なごやん」と、結婚相手と暮らす富山県で再会する。意外にも「なごやん」も妻や息子と、同じ富山県内に住んでいたのだった。

 

しずかには、夫アキオちゃんと娘・佳音の成長を愛おしむ日々に、なごやん一家と遊ぶ楽しみが加わった。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大でその生活が一変する。しずかは押し寄せる不安の波に押しつぶされそうになりながら、周囲の人々とのかかわりの中でなんとか暮らす。その日々を描く・・・。

 

ということで、ほぼコロナ禍の世の中を背景に書かれた作品だ。昨年5月の出版で、物語は2021年の10月までを書いているので、まだまだ現在のように「コロナ慣れ」していない頃の話なので、今読めばすでに懐かしさを覚えることもある。

 

博多弁の世界で暮らしていた主人公しずかが、言葉も文化も大きく違う富山で暮らすことは大変だったことと思う。しかも彼女はいつまた悪化するかもしれない病気を抱えているのだ。

 

夫のアキオちゃんがおおらかな人で、その人を育てた姑もまたカラッとした人であることに随分救われている。嫁姑の陰湿さは全く出てこず、その点は気持ちよく読めた。また娘の佳音が、10歳とは思えない大人っぽさで母親を支えている。親が弱さを抱えていると、子供はこんなふうに老成してしまうものなのかもしれない。

 

なごやん」家の愛犬が行方不明になったり、しずかとアキオちゃんが誤解から険悪なムードになったりする小さな事件もあるが、悪意の人も出てこない物語自体は結構良かったのだけれど、私の悪い癖で、あちこちひっかかってしまった。

 

一番気になったのが「義実家」という言葉だ。SNSなどではもうしょっちゅう目にしてはいるが、それでも、まだプロの小説家が作品の中で使う言葉ではないように思う。しかもこの作品の著者は、1966年生まれで若手とも言い難く、そのうえ文學会新人賞・川端康成文学賞芸術選奨新人賞芥川龍之介賞谷崎潤一郎賞など数々の賞を受賞している作家なのだ。まだまだ一般の人でも抵抗を感じる人が少なくないと思う「義実家」という言葉に、疑問は感じなかったのだろうか。

 

コロナの影響もあってかあちこちの店が廃業するということを書いた部分で、「コスメもアクセサリーも、途中で投げ出した参考書も、なんなら高校生のころのデートだって天神コアやった」と出てくる。この「なんなら」の使い方も、本来の「なんなら」の使い方とは違う新しいものだ。

 

この他にも、「月ぎめで借りている駐車場」に「月極」という文字使いがされ、「なごやん」家族と遊びに行く場所の説明に「飛び地」というのが出てくるのだけれど、どう考えても本来の「飛び地」では意味をなさないように思った。

 

コロナを重要な要素にしているので、急いで出版する必要があったのかも知れないけれど、もしかしたら、だからこそ貴重な作品になるかもしれない。感染症パンデミック下の人々を描いた作品として。

 

最後のほうにある

そもそもあたしという人間は決してまともではない。でもまっとうに生きたいとは思っている。それってなんだろう。

(中略)

まっとうと苦労がないこととは違う。

もちろん子供にはできるだけ苦労させたくはない。だからといって、安全なことだけを選んでほしいとも思わない。旅だったら失敗したことの方がよく覚えているし(中略)全てが予定通りだったら多分、記憶にも残らない。

リスクを減らすことは賢明ではあるけれど回避したことには実体がない。正解を求めれば求めるほど、人生は希薄になっていく。

 

この言葉は味わい深い。私も「まっとうに」生きたいものだと思うが、さて私のまっとうは何か?まだまだ先が長そうな365連休の日々、考えてみたい。