5月末の日曜日の朝、目覚めてテレビをつけると、見覚えのある障碍者の方が映っていた。寝たきりの方が、わずかに使える口を使ってパソコンを操作し、自らを主人公にしたゲームを制作。さらにそれを、コミックマーケットで分身ロボットを使って自ら販売していた。
ゲームを作ったマサさんは、以前分身ロボットを使ってカフェで働くという体験をしていた方だ。
吉藤オリィさんの作ったこの分身ロボットOriHimeは、病気や障害などで家や病院にいるしかない人たちの世界を広げている。経済が常に拡張しなければならないという考えには抵抗を感じてしまう私だが、技術の進歩や、社会が豊かになることは、こうした素晴らしさをもたらしてくれるということは認めざるを得ない。
ならば、すべての労働が人力と家畜のみでなされていたころを思えば、第四次産業革命を経験している今、社会は相当素晴らしくなっているはずなのだけれど、既存の問題が解決され世の中が少し進歩すると、一方でさらに複雑で厄介な問題が起きてきてしまうのは、いったいなぜなのだろう。
21世紀になって20年もたち、ごく普通の人間が一人ひとり手のひらに高性能なコンピューターを持って暮らす時代になりながら、脳みその中は人種差別や男女差別から貧富の差別と、何百年もの昔からいっこうに更新がなされない。
ニュージーランドのアーダーン首相や、カナダのトルドー首相を見ると、自分の国の政治家たちとあまりに違うことを感じずにはいられない。家庭では親の姿が、学校では教師たちの姿勢が、子や児童生徒に大きな影響を与えるように、日々目にする国の指導者の姿は、いつの間にか人々に大きな影響を与えるに違いない。
いまメディアの話題に上っている、国の、あるいは地方自治体の指導者たちは、人々が見習いたいと思える言動の人間だろうか。そしてそれを報道しているマスメディアは、自分たちのしていることが無意識のうちに一般大衆に刷り込みを行ってしまうという自覚があるだろうか。
「文春砲」がなければ、黒川氏の賭けマージャンも知らず、すんなり検事総長におさまっていたかもしれないが、何回かに一回でもいい、人知れず素晴らしいことをしている、尊いことを続けている、そんな人をスクープしてくれたら嬉しい(それではお金にならないのだろうが)。それが著名人だった場合、おそらくこの国では売名とか偽善とか言って叩かれるのかも知れないが、少しずつ、そういうことを素直に称賛する文化を作っていけないだろうか。
戦後の焼け野原のなんにもなかったところから、75年かけて、せっかくここまで来たのだ。格差が拡大していたところにコロナ禍も加わって、生活が大変な人もたくさんいることと思うけれど、それでも、私が子供の頃(昭和30年代~40年代)を思えば、社会としてははるかに豊かになっている。いいかげん人と人とが憎み合ったり罵り合ったりはやめて、ちょっとずつ分けあい力を貸しあって、問題解決に一歩一歩進んでいくような社会になったらいいなあと願う。
まずは、国民に背中でお手本を見せられるような政治家を選ばなければ!(と、結局ここに落ち着いてしまう・・・)
カフェで働く分身ロボット。 (画像はネット上からお借りしました)
こちらは入院中の子供に代わって授業を受けたりする分身ロボット。