本を読むという行為の、これほどまでに深い喜び。
先を知りたいのだけれど、読み終わってしまうのが寂しい。どの作中人物とも別れがたい・・・。
北村薫さんの「円紫さんと私シリーズ」の第三巻、『秋の花』である。第一巻は5つの、第二巻は3つの物語の連作短編集だったが、これはシリーズ初の長編で、しかも初めて物語の中で人が亡くなる。重い話だ。それなのに読み終わった時の、なんという温かな柔らかな気持ちであることか。
一人の悪人も現れず、誰もひとかけらの悪意も抱かない。それでも、突然に人は死ぬ。それも青春真っただ中の、たくさんの未来と可能性を秘めた少女の死。
いつもの主人公「私」は大学3年生になっている。母校の女子高の文化祭が、ある事件のため中止になり、「私」は悲しくも不可解なその事件にかかわることになる。
その事件とは、幼なじみで仲良しだった真理子と利恵を襲った苛酷な運命だ。学校の屋上から真理子が転落して命を落とし、残された利恵は抜け殻と化したように憔悴していく。文化祭準備中の事故と処理されるが、親友を喪った傷心の利恵を案じ、家も近所であり、二人の先輩でもある「私」は真実を探っていくが謎は深まるばかりで、いつものように円紫さんの力を借りることになる・・・。
一冊の本の中に、実に様々な人の愛と暮らしが描かれる。女子高校生の可憐で屈託のない友情や、主人公たち大学生の大人の世界に足を踏み入れた友情。主人公と姉の複雑な姉妹愛は、私も姉がいるのでよく分かる。そして、十代の娘を突然失った母親の深い悲しみ。事件の真相が明らかになったとき、いっそうこの母親の痛いような思いと愛が胸に迫る。
北村さんのこのシリーズを読んでいると、どんなに本が人間を育ててくれるかということを感じさせられる。今となってはもう娯楽でしかないが、現在の自分の経験と感情を持って若い日に戻り読書ができたなら・・・と、ついせん無いことを思ってしまう。
「私」の友人たちも素晴らしいが、やはりなんと言っても同じ大学の文学部の先輩でもある円紫師匠の含蓄のある話にはうっとりしてしまう。いつも柔らかく「私」を受け止めてくれる円紫さんとの会話から、彼女が導き出した人生や自分というものについて言っている部分は胸を打つ。
人は生まれるところを選ぶことは出来ない。どのような人間として生まれるかも選べない。気が付いた時には否応なしに存在する《自分》というものを育てるのは、ある時からは自分自身であろう。それは大きな、不安な仕事である。だからこそ、この世に、仮に一時でも、自分を背景ぐるみ全肯定してくれる人がいるかもしれない、という想像は、泉を見るような安らぎを与えてくれる。それは円紫さんから若い私への贈り物だろう。
ここで円紫さんが請け合った「全肯定してくれる人」というのは、その少し前で「私」が触れた話題の、「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」という和歌に歌われているような思い人のことであろうが、恋人でなくとも、全肯定してくれる大人の存在があれば、不安定な若い日々もどんなに心強くなるだろうと思う。揺れる若い人のそばに、そういう大人がいて、《自分》を育てる支えになれたらと思う。
人は一つの人生しか生きられないけれど、本を読むことによって(あるいは映画やドラマを見ることによって)たくさんの人生を知り、生きる知恵を学ぶこともできる。『秋の花』には、このたった一度きりの人生に、思いがけない陥穽が待ち受けていてもろく崩れてしまい得ることを教えてくれる。そして、円紫さんは言う。
「もろいです。しかし、その私達が、今は生きているということが大事なのではありませんか。百年生きようと千年生きようと、結局持つのは今という一つの時の連続です。もろさを知るからこそ、手の中から擦り抜けそうな、その今をつかまえて、何かをしようと思い、何者かでありたいと願い、また何かを残せるのでしょう」
ミステリーの形を借りた、人生の書、という気がします。