あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

いろいろお騒がせ

かかりつけの歯科医院から予約の確認葉書が届いた。「私の歯医者さん」というスマホアプリを使うようになって、診察券も、定期検診の通知葉書もなくなってそろそろ1年になるのに、珍しいことだ。

 

なぜだろうと考えて思い当たった。私の今度の定期検診日が今月の27日だからだ。いま世の中を騒がせている国葬の当日なので、おそらくテレビなどは大騒ぎで取り上げるだろうし、そうしたことに気を取られて予約を忘れる人が出ると困るので、先手の対策を打ったのだろう。

 

国葬当日の行動については、”言い出しっぺ”はスタンディングではない別の方法で・・・と言っているが、国葬の始まる時刻に合わせて何かしら行動はするが、内容はまだ検討中だ。いずれにしても、私はテレビの報道などはいっさい見ないつもりだし、歯科の予約は幸い午前でもあり、いまのところ27日といえども優先順位は1位だ。

 

diamond.jp

 

現在批判的な立場をとっているテレビ局でも、当日はおそらくどのような形にしろこの国葬を取り上げるに違いないし、政権側としては、国葬強行後、今の大逆風を「やって良かった」ムードに変えるため、あらゆる手を尽くすだろう。いまも刻々と、上の記事にあるように、さまざまな力が蠢いて、影響力のある人々を動員するための画策がなされているのかもしれない。

 

流されやすい人が多いだけに、国葬強行後の世の中の空気がどう変わるかいまは不安しかないが、とにかく、モリカケサクラ始め、統一教会のことや五輪の汚職など、安倍元首相や現政権の問題を、諦めず粘り強く追及し続けるしかないと思っている。

 

SNSなどで人々がしつこく反対の声を上げなかったら、広くさまざまな機関に半旗の掲揚やら弔意の表明が求められ、イベントや、業種によっては営業の自粛といったことも求められていたかもしれない。

 

いち地方都市の歯科医院にも影響が及ぶ、なんとも人騒がせなイベントであることよ。

 

 

当日の国葬騒ぎはムシ!     (エウレカ!さんのサイトより)

 

お騒がせと言えば、前回のエントリーで私もご心配をおかけしました。お優しいコメントをたくさんいただき恐縮しております。薄紙をはがすように痛みは弱まって来て、今日はだいぶ動くのも楽になりました。末筆ながらご報告まで・・・。

粗忽の負傷

今日は市からの敬老祝い品が届く日なので、民生委員は校区市民館に集まることになっていた。市民館の入り口のフェンスはまだ鍵がかかっていたので、通り過ぎてきた隣の小学校まで戻って、そちらの入り口から入る。重たいフェンスをゴロゴロと開けて敷地内に入り、またよいしょっと閉める。

 

そこへ仲間の民生委員が車でやって来たので、降りてフェンスを開けなくてもいいように、閉めたばかりのそれをまた急いでゴロゴロと・・・っと、ここであわててしまったのか、その重いフェンスが私の左足の親指の上を!

 

多分、反射的にひっこめて、完全に「轢かれた」わけではないと思う。とりあえず相手の方に心配させてはいけないので、大したことはないと平気な顔をした。今日の役目自体は、市の職員の到着を待ち、品物を受け取って戻るだけなので、それほど時間もかからないだろう。

 

ところが、こういう時に限ってティッシュを持っていなかった。市民館はほとんどうちの団地の敷地から細い道路を渡るだけの距離だし、用事もすぐ終わるからと軽い気持ちで、スマホとハンカチしか持たなかった。ハンカチは今年の誕生日にプレゼントされたばかりのお気に入りのもので、落ちにくい血で汚してしまうのには抵抗があった。せめて手帳を持っていれば、救急絆創膏もはさんでいたのだけれど。

 

市民館の玄関で恐るおそる見るとそれほど大した出血でもないようだったので、そのままスリッパをはいて用事を済ませた。帰りにスリッパを脱ぐと、結構血がついていて焦った。他の人に気付かれて大ごとになると困るので、何食わぬ顔で自分のサンダルに履き替え大急ぎで帰ってきてしまった。

 

帰宅後もなかなか血は止まらず、歩くのにも少しかばわないと痛む。地区市民館(こちらは今日行った校区市民館よりほんの少し遠い)からリクエスト本が届いていると連絡をいただいているので取りに行きたいが、今日は外出を控えておとなしくしていることにする。

 

校区市民館のかた、スリッパを汚してそのままにして帰ってきてしまいました。大変たいへん、申し訳ございません。

 

 

粗忽なんだよね、気を付けなくちゃ・・・。

 

秘するゆえさらに・・・『燃ゆる想ひを』鈴木輝一郎著

「女が生きるのに、男はいらない」。この物語の書き出しの一文だ。古風なタイトルと装丁なのに現代ものかと思った。けれども、関ケ原の戦いの時代を背景にした、女の物語だった。

 

主人公は近江と美濃の境にある伊吹山のふもとの薬種問屋不破屋の女主人「とき」である。この「とき」の心情として、この一文が繰り返し出てくる。今も昔も、女は強いのである。精神的な意味で。

 

ときは元亀元年生まれの数え31歳。この時代ではとうに女の盛りは過ぎ、若い頃は多くの男たちに言い寄られるだけの容色は備えていたようだが、すでに、店に押し込みに入った男たちにすら相手にされない年齢である。

 

戦の続く時代、薬種屋の主人である夫は、兵たちについて歩いて傷の手当てをしたり必要な薬を飲ませたりで店には不在がち。けれどもときはむしろさばさばしている。

 

入り婿である夫佐平次は気弱さと誠実さは同居するものだということを服を着て言っているような男で剛胆さはない。男手の足りない里のこと、取引先の手代として出入りしているうちに、ごく自然に妻夫(めおと)の約定が父との間にできていた。

 

ときは父を尊敬し慕っていたが、その父もなくなり、夫が旅に出てしまうと、ときは雇った里の農家の娘二人と、不破屋に何十年も仕える五十をこえた老婆とで店を守っている。伊吹の艾(もぐさ)は平安の世からよく知られ、畑で蓬生を栽培し、葉を摘んで艾にするのも女たちの仕事だ。

 

ある日戦場から、夫が隠し子である少年を連れて戻って来る。以前から出先に女がいるらしいことには気づいていたときだけれど、まさか子まで成していたとは驚きだった。しかしこの年まで自分に子がない以上これからも持てないであろうことは明らかで、ときはその少年を受け入れる決心をする。薬を追加してまた二人は戦場へと旅立つ。

 

徳川方と石田方とで混乱が生じそうだとのことで、関ヶ原近在の女や子供は武家不入の地である寺に避難することになる。二人の娘と老婆を避難させ、ときは一人で店を守ることにする。

 

そんな中、ときは蓬生畑で大怪我を負った鎧武者と遭遇する。放っておけばやがて命を失いそうなその武者は、ときに自分の腰の刀を抜いて首をはねてほしいと頼む。切支丹であるため自害は出来ないというのだ。その武者が何者か分からないまま、ときは男を祠に匿い介抱する。

 

ここから家と祠を何度も行き来して、粥や湯や薬を運びかいがいしく武者の世話をするときの日々が始まる。武者は徳川方の残党狩りや近在の者の落ち武者狩りがあったら、「名前を知らぬまま、脅されてやむなく匿った」と言って引き渡せと言い、知らぬ方が良いと決して名を明かさない。切支丹に帰依した時に受けたという、晏牛頭(あんごす)天王という法名のみを教える。

 

牛頭天王の世話をしながら、ときはいつのまにか自分の心が華やぎを覚えているのに気づく。篤い信仰と毅然とした態度を貫く晏牛頭天王に、ときは亡き父の面影を重ね、慕う気持ちを募らせていく。

 

物語りの中盤を占める、このときと晏牛頭天王との交流を描いた部分が佳境だ。ときだけでなく男の方も好意があるのではないかと思わせるのだが、決してそれを口には出さず、ときも狂おしい思いを抱きながら(かなり危ない場面もあるが)かろうじて踏みとどまる。

 

やがて晏牛頭天王はなんとか自力で歩けるまでに回復し、別れの時がやって来る。何か礼がしたいという男に、ときは「あなた様を助けたことを、私が誇れるようにしてください」と言う。「落ち武者の隠蔽は重罪だ。誰かに誇りたくとも、誰にも言えない」と男は言い、自分の命以上に大切にしていた経典の一部分を切り取り、守り袋か何かに詰めて身につけておくようにとときに手渡す。「何かあったら、それを握りしめて私を呼びなさい。私はいつでも参る。私ができる恩返しはそのぐらいだ」と告げて。これが劇的な結末につながっていく。

 

この秘めた恋の中でときは女として人間として成長し、「男はいらない」と繰り返し言っていた彼女が、最後には「女も人も、ひとりでは生きられません」と言うやわらかさを持つにいたる。

 

心に残る素晴らしい言葉もそこここに散りばめられ、深い感動を覚える物語だった。タイトルはもちろん、藤原実方朝臣の「かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを」からきている。

 

 

 

 

 

アファンタジアという症状の存在

私の身近な人が、最近になってアファンタジアだと分かったと言う。「アファンタジア」。初めて聞く言葉だ。

 

何だろうと思ったら、頭の中でものごとを視覚化することができない人のことだそうだ。たとえば、「さあ、頭の中でイメージしてください。真っ白な雪原に点々と兎の足跡がついています・・・」と言われたとき、たいていの人の頭の中には下のような図が描かれると思うが、こうした画像を思い浮かべることができないと言う。

 

 

外から見てわからないのはもちろん、本人も、他の人も同じなのだろうと思っているのでなかなか気づきにくい。こうした人の存在そのものは1880年に発見されたものの、現在も研究はあまり進んでいないらしい。

 

こういう人は「犬を描きましょう」と言われてもうまく描けない。見て描けば問題なく描けるのだけれど。子供の頃の母の日の絵などは困ったことだろうなと思う。

 

私はだいたい夢はカラーで見ていると思うが、アファンタジアの人は「まったく見ない」「ほとんど見ない」「見るけれどはっきりしていない」ということが多いらしい。眠れない時には羊を数えるといいと言うが、アファンタジアはその羊をイメージすることができないのだそうだ。

 

この他、脳内で道を再構築することができないため、方向音痴であることが多い。これは私も非常に該当しているのだけれど、私の場合は真正(?)の方向音痴であって、アファンタジアではないと思う。

 

道路とか空間図形が把握しにくいなどという点では大いに共感できるものの、アファンタジアという症状が存在し、頭の中で犬や猫や愛する家族の顔も想起できない人が存在するということには、非常に驚いた。研究が進んでいないので詳しいことは分からないが、出現率は2~5%くらいらしいので、気づかないだけで、それほど特異な存在ではないのかもしれない。

 

そんなことから、自分の見ている「赤」と他の人が見ている「赤」とは同じとは限らない、いや実は大変な相違があるのかもしれないという話になり、人というものは案外それぞれにかなり違う世界で生きているものなのかもしれないと思ったことだった。

 

 

もしかすると、目下国民の関心の集まるあの人物なども、モリカケ問題だけでも118回も嘘をついたと言われるが、ご本人は全く嘘をついている自覚などなかったのかもしれないとも考えられる。「嘘」という概念自体、はたしてあったのか・・・。

 

そして私などは「政治とは人々の税金を預かって、弱い立場の人たちも安心して暮らせる社会であるよう腐心すること」と思っているが、かの人は疑うことなく「権力であり、自分とつながる人たちに利益をもたらすこと」と心底から信じていたのかもしれない。

 

不幸なのは、そのような人物を歴代最長という長きにわたって総理大臣としていただいていた私たち国民だ。それも、どうやら八百長プレーによってその座に居座られたらしいというのだからたまらない。

 

これからは、人は自分と同じような価値観・倫理観で生きているなどと思い込まず、むしろ、嘘をついているとか悪をなしているという自覚すらなく、人を利用し蹴落としても勝つことが善であると信じている人間すらいるということを念頭に、選挙に臨んだほうがいいのかも知れない。

 

日々繰り広げられる、権力者たちの「私にとっては」信じられない言動のオンパレードに、アファンタジアという初めて出会った言葉から、こんなことまでを考えてしまったことだった。

 

 

外は十五夜、秋の気配の近づく夜。

40人に達しました!

昨日の国葬反対のスタンディングは、地元メディアにも告知した旨を連絡し、力を入れて呼びかけた成果もあったのか、何年ぶりかで40人に達する人が集まった。メディアは朝日新聞と東愛知新聞が取材に来て、今日の朝刊で報じてくれた。

 

 

記事には30人とあるが、このあとも人が増えて、終了時には40人に達していた。

 

朝日新聞も地域ページの小さな記事だが、写真入りで掲載された。

www.asahi.com

 

テレビの音と今日のスタンディング告知

先日の赤ちゃん訪問の折り、訪ねた家で3度ほどノックをしたが応答がなく、主任児童委員さんと再度訪問かしらねと言い合ったのだが、彼女が「でもこの音、掃除機の音じゃないかしら、ほら、聞こえるでしょ」と言う。しかし私が耳を澄ましてもその音は分からない。

 

そのうち彼女が「あっ、止まった。もう一度呼んでみよう」とノックすると、期待にたがわず玄関のドアが開き、赤ちゃんを抱いたママが顔を出し、めでたく初回で面談することができたのだけれど、自分の聴力不足を再認識させられた。

 

去年の夏の突然の難聴(急性感音難聴orメニエール)は治ったとはいうものの、やはり左はもともとかなり聞こえないし、おそらく右も完全に元通りではないのだろう。普段の生活では、昨年の夏以来、テレビはほとんど「字幕あり」にして見ている。いま『S.W.A.T.』のシーズン3をやっているのだけれど、この番組は字幕のサービスがないので、かなりボリュームを上げてもセリフの細部が聞き取れず、残念に思っている。

 

hikikomoriobaba.hatenadiary.com

 

パソコンのモニター画面に「テレビの音がはっきり聞こえる」と謳うスピーカーの広告がよく表示されるが、あいにくこの製品の色もデザインも私の好みではない。これが我が家のリビングに入って来ることには少々抵抗があって、まだ購入を躊躇している。

 

歩道を歩いている時に、後ろから来た自転車が突然私の脇をすり抜けていってドキッとすることがある。近づいてくる音も気配も分からないし、時にはベルに気付かずにいることもあるらしい。昨日のヘルプマークではないけれど、聴力障碍を表す「耳マーク」を付けた方がいいのだろうかと考えたこともあったが、どうも自分の程度ではそれも大げさな気がして踏み出せずにいる。

 

 

あのね、あのね・・・。    ピンタレストさんのサイトより)

 

あと、本日のスタンディングです。

 

 

 

 

ヘルプマークに思うこと

大きな手術をして、数か月のブランクののちボランティア活動に復帰した男性は、障碍者一級になったと言う。けれどもちょっと見たところでは、杖を突いているでもなく、全く元の状態と変わりはないように見える。

 

一緒に歩くとさすがに歩調は非常にゆっくりなので、相手に合わせてゆるゆると歩く。事情が分かっているのでいいけれど、もし何も知らない人が彼の後ろを歩いていたら、ちょっと苛立ってしまうのではないかと思う。

 

そこで、「〇〇さん、見た感じは前と何も変わらなくて、とても障碍一級とは思えないので、ヘルプマークをお付けになったらどうですか」と聞いてみた。すると、彼は「それも考えたんですが、かえっていたずらされたりしても怖いし・・・」という答えが返って来た。

 

一緒に歩いていた人たちと、「確かに。近頃とんでもない人も少なくないし、それもそうですね」ということになった。

 

思えば、ヘルプマークというのは人々の善意を前提にしたものかもしれない。ある種の人には、「私は非力な存在です。格好の獲物です」というふうに見えてしまうかもしれないと気づかされた。自分が当事者にならなければ分からないことは、たくさんあることをまたしても思い知らされた。

 

 

いま急速に円安は進み、さまざまな指標がすでにこの国が先進国ではないことを告げる。ただ、私が子供の頃は1ドルは360円で、小学校の社会科では「日本は資源も乏しく輸入超過の貧しい国」と習い、エンゲル係数は40くらいだった。

 

それを思えばまだかなりマシだと言えるかもしれないが、なんだか人々の心は、どうもあの頃(昭和30年代)よりもギスギス、とげとげしているように感じる。凶悪犯罪は確実に減少しているし、法令順守の精神はあの頃よりはるかに世に浸透もしたと思うけれど、住みにくくなったように思うのは、過去が美化されているだけだろうか。子供だから、分からなかっただけなのだろうか。

 

狭い国土なりの人口や国力に落ち着き、世界の中で平凡な目立たない国になってもいいから、お互いがもう少し柔らかな心で、弱い立場の人を思いやる余裕をもって暮らせる社会を望むのは無理なことなのだろうか。

 

 

助け合わなくっちゃね。   (カラパイアさんのサイトから)