あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

茶の間から見た戦争『小さいおうち』中島京子著

2010年に第143回直木賞を受賞した作品で、2014年山田洋二監督によって映画化された。映画は主に女中タキが仕えた女主人時子の秘めた恋に重きが置かれていたように思うが、小説は舞台となった戦前から戦中の中流階級の生活が、こまやかにいきいきと描かれていて大きな魅力になっている。

 

特に戦争中の東京の様子や市民の戦争に対する受け止め方が、多くの戦争文学や戦争を扱ったこれまでの映像作品とかなり違っている。タキが自分史として書き綴っているノートを見た甥(妹の孫、甥の次男)の健史(たけし)が、「知識として知っている戦争中の様子とあまりに違う、嘘を書いてはダメだよ」と言うほど、のんびりしている印象で、これがその時代に実際に生きて暮らしていた市井の人々の実感に近いのだろうと感じた。

 

たとえば、昭和10年。5年後にはオリンピック東京大会の開催を控え、東京はウキウキした気分に包まれていたと書かれている。健史は「そのころ日本は戦争してたんでしょ。二・二六事件のあった昭和10年がそんな雰囲気だったわけがないよ」と言う。しかしタキは言う。事変はあったが戦争はなかった。戦争と言えばイタリー、エチオピア、スペイン内戦だった。なんと無知な大叔母かと思うかも知れないが、健史が考えるほど無教養ではないと憤る。

 

「戦争が始まって(中略)世の中がぱっと明るくなった」とか、「食べ物は貧相になっていたけれども、(中略)株やなにかが、どんどん上がっていって、それで大儲けした人なども出て、街が少し賑やかになり」といった記述があり、昭和17年でさえ、2月のシンガポール陥落に巷は湧き、マレー海戦勝利を記念して全国の小学生に配られた青いゴムまりを持ち帰った平井家の息子恭一ぼっちゃんをして、「山下大将のおかげなんだよ。日本の軍隊が強くて偉いから、これから我が国は、うんと豊かになるんだってさ。お砂糖も、たんまり入ってくるんだって」と言わしめている。

 

都合の悪いニュースが伏せられていたこともあって、庶民が戦争を喜んで受け入れていたことがうかがわれる。戦争とは、こういう風に始まるのだということがよく分かる。確かに、戦地で、空襲の現場で、原爆が投下された地で、ひどい目に遭ったのは末端の兵士や庶民だけれど、その時代のただなかにいると、知らされるべき情報が知らされず、いつの間にか市民一人ひとりも加害者になってしまうのだということを思い知る。

 

それにしても、知らされなかった庶民は仕方ないが、各地での悲惨な戦果もお粗末な兵站も全て把握していた軍の上層部が、いくらかでも早く終戦を決めていればと改めて痛感する。タキさんの記憶では、「パールハーバーから市議会選挙の年(昭和17年)までは平和だった」のだ。

 

こうした戦中の庶民の暮らしを背景に、平井家の夫婦の問題や時子奥様の秘めた恋などが語られる。タキは13歳で女中奉公のために上京し、戦争末期に疎開で戻る以外はほとんど故郷山形に帰ることもなく、仕事を引退した後も茨城の田舎で暮らす。

 

昭和40年代あたりまでは、まだこうした「お手伝いさん」という住み込みの就業形態が残っていたように思う。送り出す田舎では口減らしであり、またきちんとした家庭で家事全般を仕込まれることから、花嫁修業でもあった。

 

 

そう言えば、昔『風と樹と空と』という石坂洋次郎の小説を原作にしたテレビドラマがあった。鰐淵晴子さんが主役のお手伝いさんを演じていた。森繁久彌さんの『七人の孫』でも、樹木希林さんがコミカルなお手伝いさんを演じていた。今は懐かしいお手伝いさんという文化・・・。

 

最後に、書かずも・・・であるが、タイトルはもちろん、バージニア・リー・バートンの絵本『ちいさいおうち』にちなんでいる。

 

 

 

 

 

花散らしの雨

今日はあいにくの花散らしの雨だけれど、日差しも強すぎず風も気にならない昨日は、冬の間休んでいた5000歩の冒険に出かけた。と言っても、今回はほとんどドキドキする区間もなく冒険とも言えなかったのだけれど。

 

以前歩いた川沿いの道を行く。二度目だからか、前に折り返した大きな通りにぶつかるのがとても早い気がした。そこを今日は折り返さず、右折して大通りを歩く。たぶん、あそこの通りだろうとつけた見当は間違っていなかった。まあ、往復5000歩の範囲で、ドキドキする区間がある人の方が珍しいかもしれない。

 

hikikomoriobaba.hatenadiary.com

 

途中に小さな郵便局があったので、入ってみた。経験上、小さな郵便局の方が、特別切手が残っている確率が高いのだ。予想は的中し、少ないけれど壁にいくらかぶら下がっていた。桜や菜の花・つくしの描かれた「春のグリーティング」のシール切手を求める。今日の散歩の成果。

 

結構歩いたと思ったのだけれど、帰宅してスマホの歩数を見ると4043しかいっていなかった。家の中で残りを消化した。

 

 

こんなポストがあれば投函に行きたい! (裏・21世紀の歩き方大研究さんのサイトより)

 

今日は雨なので、家の中で5000歩を消化するしかない。いや、退職して朝のウオーキングを始めたばかりの頃は、少々の雨なら傘をさして歩いていた。何十年ぶりかに仕事から解放されてたっぷりの自由時間を手に入れ、嬉しくてたまらなかったのだろう。

 

いまや365連休も間もなく12年目に入る。このありがたい身分に感謝を忘れず、生きている限り一番若い今日を、大切にしたい。

 

 

はて?

朝ドラはずっと見る習慣がなく、長男の伴侶が帰省で我が家にいた時に、続きを見たいということで一緒に『ちゅらさん』を見たのがきっかけだった。面白くて、彼女が帰った後も一人で最後まで見続け、その後再放送された折には初回からすべて見た。

 

けれどもそのあと最後までずっと見た作品は少なく、『ゲゲゲの女房』くらいだろうか。新作が始まるといちおう見るのだけれど、間もなく脱落ということを繰り返していた。

 

このところはその「初めは見る」ということさえしなくなっていたのだが、なぜか今回ひさびさに初回を見てみた。そうしたら、主演の伊藤紗莉さんの口から時々発せられる「はて?」というせりふに、なぜか心をつかまれてしまった。

 

伊藤紗莉さんはもともと好きな俳優さんなので、彼女が言うから面白いのか、あるいは脚本が絶妙なのか分からないが、今日の2回目でも発せられていたので、たぶんこれからも度々彼女の口から洩れることになるのだろう。その「はて?」を楽しみにしたい。また長丁場を持たせるためのいらないエピソードやら不自然な展開に、私がつまづいてしまわなければの話だけれど。

 

 

脚本は2022年に『恋せぬふたり』(NHK)で向田邦子賞ギャラクシー賞を受賞した吉田恵里香さんだそうだ。36歳という若い脚本家さんに期待したい。

 

 

 

冬じまい

まだまだ花冷えの日もあるだろうが、ここ数日のように春めくと、人間とは勝手なもので急にこたつが鬱陶しくなり、こたつの布団を今朝片付けた。ほとんど子供の時以来のこたつ使用だったが、この3か月足の冷えを忘れさせてくれて、これぞまさしく日本人の省エネの知恵!と、世界に推奨したくなる気分だった。でも、そもそも西洋人には足の冷えなどというものがないのだろうか。

 

あとはこたつ導入以前の長方形のテーブルに戻すか、このまま円形のこたつテーブルを使い続けるか、ちょっと迷うところだが、いましばらくはこのままこたつテーブルを使ってみることにする。

 

無邪気に春を喜んでいた子供の頃と違い、今はごく軽くはあるが花粉症もあったり、春はまた体調も崩しやすい時なので油断できないけれど、それでもやっぱり、寒さが遠のいて、花の便りと共に一日いちにちと暖かくなる春は、心の浮き立つ思いがする。

 

はや1年の四分の一が過ぎて今日から4月。ちょうど良い季節はあっという間に過ぎてしまうから、大切にしっかり味わって過ごさなければ・・・。

 

 

どちらにしようかな・・・。

終わってしまった

話題を呼んだドラマ『不適切にもほどがある!』が終わってしまった。最終回が楽しみでもあり寂しくもあるという作品はそれほど多くないが、このドラマは本当に楽しませてもらったし、まだしばらく繰り返し見そうな気はするが、もう新しいものが見られないのは残念だ。

 

最終回の「この作品は不適切な台詞が多く含まれますが時代による言語表現や文化・風俗の変遷を描く本ドラマの特性に鑑み2024年当時の表現をあえて使用して放送しました」というテロップは実に気が利いていて、放送中には昭和を懐かしむおじさんたちのための・・・というような意見もあったようだけれど、みごとにそんな狭い視野を飛び越えてしまった。

 

いつのまにか「コンプライアンス」にがんじがらめになってしまった現代の息苦しさをうまく掬い上げて、それでもそうした中で救われている人がいることもきちんと描いていた。

 

「させていただく」の乱用や、「よろしかったでしょうか」などのおかしな言葉遣いをちくっと皮肉ってくれたのも私には嬉しく、エモケンさん、いや、クドカンさんってこんな素敵な脚本を書く方だったのだと、すっかり認識を新たにした今作だった。

 

最終回のメッセージ「寛容になりましょう」も、昭和が良かったでも令和がいいでもなく、いつの時代であっても、さまざまな大変なことがある中で、お互いに思いやりを持ち、寛容に許せるところは許しあって、なるべく気持ちよく暮らしましょうということで、本当に良い着地点だった。

 

毎回細かなところまで楽しませる工夫があって、意外性に富んだキャストも楽しく、さらにそのキャストの皆さんが、楽しんで演じている雰囲気が伝わってきて、見ているほうも幸せだった。

 

笑わせて楽しませながら、親子の情愛をしっかり描き、とりわけ高校生の純子とテレビ局で働くシングルマザーの渚の、年齢の逆転した母娘のシーンは、その切なさに毎回胸が締め付けられた。

 

先日『そしてバトンは・・・』で、血のつながらない親子の愛情にも感動したばかりだけれど、血がつながっていようといまいと、あるいは親子であろうが友人関係であろうが、要は、人と人のつながりなのではないかという気がする。同性婚で養子を育てても、思いやりや寛容でそこには素晴らしい愛情が生まれることだろう。

 

蛇足で付け加えれば、「炙りしめ鯖200皿」が私には「ツボ」で、最終回にまたこのギャグに出合えたのも嬉しかった。ありがとうございました、クドカンさん!そして演者の皆さん、スタッフの皆さん!

 

 

♪寛容になりましょう~

 

Twitter時代からバンバン政治的発言をしていた宍戸開さんが、最終回に出演されたのも嬉しかった。

陽気に誘われて

あまりにうららかな陽気に、家の中でうたた寝をしているのではもったいないと思い、久しぶりに緑地公園まで散歩に出る。同じような気持ちの人が多いとみえて、公園は老若男女でなかなかのにぎわいだ。

 

その中に、何人かのランドセルを背負った子供を撮影しているグループがいた。この春新一年生になる子供たちの親が一緒に来ているのだろうか。それとも何かメディアの撮影だろうか。本当に同じ年齢なの?と思うほど、大きい子、小さい子、体格は随分バラバラだった。

 

新入学を迎える子たちは、今ごろ毎日をドキドキ気分で過ごしていることだろう。新しい世界に好奇心いっぱいな子もいれば、不安でたまらない子もいることだろう。どうかどの子も幸せなスタートを切って欲しい。

 

そんなグループを見送って、私は木陰に座ってしばし読書を楽しむ。頭上の桜の木は二分咲きくらいか。

 

この枝のあたりはだいぶ開花が進んでいるが、まだほとんどほころんでいない木も多かった。今日のような日が少し続けば一気に咲きだすことだろう。

 

以前は干上がってしまっていた池に、雨水が自然にたまったのか水がついているが、手入れもされないままなので美しくもない光景。おまけに池にかけられた橋もまだ通行度目のままで、わびしいことこの上ない。豊橋市よ、アリーナなんて造っている場合じゃないでしょという感を強くする。

 

 

現在あるものの手入れさえおぼつかない自治体が、新たな「金食い虫」を建設して大丈夫なのだろうか。陽気はどこまでもうららかだが、足元を見ても遠く世間を見渡しても、将来への不安がいっぱいの春だ。

 

 

人生の極意『そして、バトンは渡された』瀬尾まいこ著

以前映画を(と言っても劇場ではなくネットフリックスでだと思うが)見て、まあまあ良かったのだけれど、marcoさんが原作の方が何倍も素晴らしいということを書いていらしたので、早速市民館にリクエストして読んでみた。あらすじはmarcoさんも書いていらっしゃるので省く。

 

garadanikki.hatenablog.com

 

大雑把にまとめてしまうと、映画は少々湿度高めだが、原作はカラッと気持ちよい。そして、運命に翻弄された少女と薄幸の美女といった風情の映画に対し、原作はたくさんの愛に包まれた少女と、ちょっと珍しい生きがいを見つけた男の物語という感じがした。

 

ことほど左様に、両者はかなり雰囲気の違うものになっている。marcoさんの仰る通り、映画は万人向きでステレオタイプな物語になってしまっている。もちろん、十分良い作品ではあるけれども。

 

育ててくれる大人がころころと変わるというのは、一般的には不幸なことととらえられるのだろうが、この物語の優子のように、それぞれが愛情いっぱいに接してくれるということもあるわけで、そうした場合、むしろ支配的であったり独善的であったりする血のつながった親から離れられないことより幸せかもしれない。

 

育ての母である梨花もかなり変わった人物だけれど、それ以上に面白いのが、梨花に血のつながらない15歳の娘を押し付けられて、それから男手一つで楽しそうに子育てに取り組む森宮という人物だ。

 

同窓会で再会した梨花に子育てをする楽しさ(自分の明日に加えて、もっと夢のある子供の明日まで持つことができる)を語られ、その言葉に魅了される。森宮は東大を出て一流企業に勤めながらも、人付き合いは苦手そうで、おそらくこの同窓会での梨花との一件がなければ、一生独身だったのではないかと思えるような人物だが、それでもさすがにこの状況にはひるむと思うのだが、彼は本当に楽しそうに優子との生活を送る。

 

家族は姓が一致していなければ不幸せだと決めつける政治家たちには、とうていこの森宮氏の幸せは分かるまい。娘に「森宮さん」と呼ばれていても、思春期の娘の父親としてはなかなかいないかもしれないほど、幸せな父である。

 

優子の育ての親たちに対する心遣いや森宮氏の選択は、人生を機嫌良く生きるヒントのような気がする。ある程度の経済的基盤はもちろん欠かせないし健康なども重要な要素ではあるが、人生の幸不幸はその人の気持ちの持ちようが大きく影響する。

 

結婚も、まして子育てなど、「コスパが悪い」と敬遠される現代だけれど、森宮氏のような幸せな人生の選択もある。この「渡されるバトン」は、私には人生を幸せに生きるリレーのバトンのような気がした。

 

 

いろんな形の家庭があっていいよね!