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たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

一冊丸ごと「ギフト」の『蜜蜂と遠雷』恩田陸著

へそ曲がりな私は、何であれ巷で大きな話題になっているときはそっぽを向いていることが多い。大変な話題を呼んだ『蜜蜂と遠雷』だったが、受賞から1、2年経った頃そろそろ読んでみようかと思い図書館のサイトで調べると、その時点でもまだ80人くらい待っている状態で、まあ当分いいやと諦めていた。

 

ところが、先日marcoさんのブログで感想を拝読し、俄然読みたくなり、現在何人待っているにしろ、とにかくリクエストをしておくことにした。

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そして、やっと私のもとにやってきた『蜜蜂・・・』。本市の所蔵は8冊とのことで、私のもとに来た本がどれほどの人に読まれたのか分からないが、相当の数の人に読まれたのだろうということが一目瞭然だった。

 

本のページが「背」から離れてしまい「小口」のページが凸凹になってしまっている。だから読んでいると、ところどころでページが1枚はずれたり、何枚かまとまってはずれてきたりする。でも1枚もなくなっているページはなかった。

 

図書館の本を読んでいると、ページの端がちょっと折れていて、それが嫌いな私は折れを直しつつ読むことがしばしばある。さらに許しがたい、栞代わりに折ったと思われる折りあとがついていることも珍しくない。

 

ところがこの本は、こんなにページがはずれてしまうほど読まれているのに、そうした箇所はなかった。大切に読まれたんだな、愛されながら読まれたんだなと感じた(ページが「背」から離れないようにするためには、相当注意を必要とするので)。

 

marcoさんも触れていらした、蜜蜂の羽音が聞こえてきそうな明るい表紙。そしてその表紙を開くとカバーの「そで」にはホフマン先生からの風間塵の推薦状が印刷されている。目次は「エントリー」から始まって「本選」まで、ひたすら曲名が並び、続いて「第6回芳ヶ江国際ピアノコンクール課題曲」として第一次予選から本選までの課題の曲名の羅列。さらに続く2ページで中心人物4名の第一次予選から本選までの曲名という、小説としては実に面白い作りになっている。

 

こうして本文が始まり、二段組み507ページのボリュームの物語のあとに、「第6回芳ヶ江国際ピアノコンクール審査結果」として第一位から第六位までと聴衆賞・奨励賞・日本人作曲家演奏賞までの受賞者の名前が記載されている。そう、読者はうっかりすると、本文を読む前にコンクール結果を知ってしまうのだ。

 

でも、こんな作りにしてあるのは、そんな競争の結果など、この物語を味わううえで大した意味はないからだ。

 

これほどの大作長編でありながら、中心人物たちの演奏するピアノのように、読む者は物語に飲み込まれ、心地よく翻弄され、どんどん読み進んでしまう。この作品の前に読んでいたものに比べ、部分的に言葉遣いなどが軽くて初めのうちは「あれ?」と思わされたが、読み進むうちに納得した。

 

主要人物たちが揃った会話が混じる部分になると、まるで少女漫画を読んでいるかのような気分になる。明るくて軽いのだ。使う言葉もまさに現代。「ダダ漏れ」などと出てくる。これが、コンテスタントの演奏を説明する部分の繊細さや緊張感と、うまくバランスをとっているように思った。

 

すでに多くの人が読み、感想を書き、また映画にもなって多くの人の目に触れているので、ストーリーには触れない。また、人間関係や物語さえ大したことではないと思えてしまう。

 

この物語を読みながら、たまらなくクラシックが、いや音楽が、聴きたくなる。特別ではなく、「日々の暮らしの中にある音楽」を見つけたくなってしまう・・・これこそがホフマン先生が風間塵を通して、全ての人に受け取って欲しかった「ギフト」であり、著者が伝えたかったことなのではないかと思う。

 

だから、あらすじを聞いても、ネタバレの感想を読んでも仕方がないのだ。自分でこの作品を「体験」し、「ギフト」を受け取らなければ、この作品を読む価値はないのではないだろうか。

 

蛇足ながら、この物語の舞台の「芳ヶ江国際ピアノコンクール」は浜松市の同名のコンクールがモデルになっているそうで、その会場はアクトシティ浜松だ。昨年孫の吹奏楽部が東海大会に出場するというので、長男夫婦と聴きに出かけたホールで、その時を思い出しながら読めたのも楽しかった。

 

 

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