あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

平凡な人生を紡ぐ静かな物語の魅力『光の犬』松家仁之著

北海道東部の枝留(この地名は架空らしい)に暮らす添島家の、三代にわたる人々の物語。特別な人物も登場しないし、ドラマチックな出来事も起こらない。薄荷の会社の役員の祖父、その連れ合いで助産師として忙しく生きた祖母、その夫婦の一男三女の子供たち。

 

三人の娘のうち、長女は堅実で働く女性として実績を積み、日常生活能力に少し欠けるような二女は結婚するがすぐに破綻し、出戻ってからはさらに鬱の傾向も加わる。三女は派手で自己中心的で、地味な兄嫁を軽んじるようすが見える。舅姑と三人の小姑とともに暮らす長男の嫁は、それでもこの小姑もいずれ家を出ていくのだと思って耐えるが、結局三人とも生家で年老いていく。

 

兄妹のうちただ一人家庭を持った長男には、長女歩と長男始が生まれる。長い一族三代百年の物語は、この始が「消失点」を背負っているという一文で始まり、「始は眠りにおちていった」という一文で終わる。終始一貫、統制のとれた静かな物語だ。感動的に盛り上げることもなければ、激することもなく、ただ淡々と自然描写や人々の、誰の身の上にも起こりそうな人生を描いていく。

 

それなのにこれほど引き付けられ、心を揺さぶられるのはなぜなのだろう。取り立てて感情移入する人物がいるわけではない。しかし、どの人物も自分である、とも思う。そうして読み終えると自分の生き方について、考えないではいられない。

 

440ページの本であるが、最近の本には珍しく小さめの活字で、しかも会話文を多用していないのでほとんどのページがびっしり文字で埋められていて、本の厚さ以上に長編の小説である。

 

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美しい装画はコーネリア・フォスというアメリカの画家だそうだ。コーネリア・フォスの夫は高名な作曲家ルーカス・フォス。武満徹とルーカス・フォスは親しい友人同士で、武満さんの遺品のなかに一枚の絵はがきがあり、それがコーネリア・フォスの風景画だった。

 

著者の松家氏は「芸術新潮」の編集長時代に〈武満徹特集〉でこの絵を見て、とても印象に残っていたと言う。私もこの絵が気になって誰の絵だろうと思ったのだが、本の中には名前が見つからず、ネット検索でこのエピソードにたどり着いた。

 

退屈になっても不思議ではない物語をこれほど夢中になって読ませてしまうのは、ひとえに著者の描写力だろう。自然についても、人についても(これは作中の架空の人物も、歩が傾倒していく星空の研究者ハッブルのような実在した人物についても)、添島家で飼育された何頭もの北海道犬の描写についても。

 

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いまどきには珍しい小さめの活字がびっしり。これだけで私は信用してしまう気味がある。会話文多用でページ数を稼いでいないという一点で。