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男も女も潔く美しい『霧の橋』乙川優三郎著

1997年出版の作品。著者紹介には「国内外のホテルに勤務。現在は翻訳下請業に従事」とある。まだ乙川さんが専業作家になっていない頃の作品だ。前年にオール讀物新人賞を受賞し、本作では時代小説大賞を受賞している。

 

冒頭の章は陸奥国が舞台。一関藩三万石の田村家の勘定方の二人が小料理屋で酒を酌み交わしている。妻を亡くしてから長く独り身を通してきた江坂惣兵衛は、もとは武家らしいここの女将といずれ一緒になりたいと思っていて、今日はそれを同僚の林房之助に話そうと心づもりしていた。

 

ところが林がその女将の前身を覚えていたことから思わぬ展開になり、林の刀から女将をかばった江坂は命を落としてしまう。江坂の次男の与惣次は長く苦しい仇討の旅の末に林房之助を討つが、国元に帰ってみると、兄は公金横領の罪で切腹、江坂家は廃絶となっていた。

 

家を失った与惣次は江戸に出て、男たちに絡まれている女「おいと」を救ったことからその家の世話になることになり、彼の人柄を見込んだ父親は彼においとの婿になり、店を継いでくれと頼む。

 

こうして武士を捨てて紅屋という口紅を扱う商店の主となり、名も惣兵衛と改めて、与惣次の新しい日々が始まる。

 

子供こそできないが、妻のおいととの仲も睦まじく、商売も順調に進むが、やがて紅だけでなく小間物全般を扱う大店である勝田屋が彼に近づいてくる。どうやら魂胆があるらしい。ここからの展開は、現代の商取引をも彷彿とさせる息もつかせない厳しいビジネスの応酬だ。

 

加えて、美しいおいとには横恋慕する男がいたり、武士だったときの因縁が絡んできたりで、波乱に富んだ物語が展開する。初期の頃の作品とは言え、著者の厳しく研ぎ澄まされた文章はすでにしかとあり、季節ごとの江戸の町の情緒や人の心のひだまで描く。

 

未練もなく捨てたはずの惣兵衛の過去が追いかけてきて、おいととの間もぎくしゃくし始める。武家の女から手紙が来て、惣兵衛は妻に何かを隠したまま出かけていく。どうやら過去を清算する果し合いになるようだ。

 

足元も定かに見えないような濃い霧に包まれた橋での最終章は見事で、深く心を打つ。

 

 

体面を守ろうとする武士と、金勘定が身上の商人。どちらにも真摯な主人公の生きづらい人生。現代の政治家は体面より権力か。その闘争に勝ち目がないとみたか、ついに総裁の椅子を諦めた男と、最後まで自身に事故の責任はないと主張し裁判官に諭された受勲者の男。惣兵衛が生きて今の世にいたら、これらの男を見て何と言うことだろう。

 

 

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