あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

数千円分の領収書

3月下旬に提出した助成金事業の報告書類に対し、先方からいくつかの修正点が指示されてきた。

 

その中に、「領収書の宛名法人名なし」というのが何点かあった。全てレシート状態の金額の小さなものばかりだ。私はもうすっかりそれらのお店にもう一度行って、宛名を書き加えてもらわなければ・・・と思い込んでしまい、再提出の期限は3日しかないし、理事長に「残念だけど金額は小さいし、これらは除いて書類を作り直しますか?」と問い合わせた。

 

彼女は、「自分が書き加えて画像を取り直し、再提出します」と返事をしてきた。「あちらも、当然自分たちで書き加えることを承知で言ってきていると思うので」と。ここまで言われて初めて「そうか!」と合点する私。このことに始めから私が気が付けば、忙しい彼女を煩わすことなく、さっさと修正書類ができた、いやそれ以上に提出前に私が気づいて書き込めばよかったのだ。

 

全く70年以上も生きてきて、こんな融通も利かないとは我ながら情けない。ことほど左様に、私は呆れるほど杓子定規に、物事を額面通りに受け取り過ぎるところがある。しかも自分のそういうところに、やっと最近気が付いたありさまだ。

 

きっかけは5年前の変形性股関節症での入院だ。確か以前にも書いたが、入院の案内の印刷物に「持ち物にはすべて名前を」とあったため、本当にそれはもう下着からリップクリームの果てまで名前を付けた。

 

入院してみれば、病院側に委ねるものなど氷嚢くらいのもので、洗濯も自分でするし、記名の必要を感じることなどほとんどなかった。退院して我が家で生活するようになって、ああこれにも、あらこれにも・・・と律儀に記された名前を目にするたび、真面目に何かが付きそうなタイプの長男をしばしばからかったけれど、彼のその性格は私からの遺伝だったのだとつくづく思った。

 

今回のことで改めて、この年までこんなふうで生きてこられたことは、ありがたいことかも知れないとも思った。偉い政治家先生たちなど、使ってもいないお金の使途を作り出し、勝手に領収書を書いたりすることに何の痛痒も感じないことだろうが、はたしてそれは人としてどうなのだろう。

 

 

偉大な遺伝の力・・・。  (猫川猫太郎さんのTwitter画像)