あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

精神が浄化されるような『始まりの木』夏川草介著

この本に出合わせてくれたつるひめさんに、まずは心から感謝したい。読んでいる間じゅう、心がふるえていた。

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フォローしている傾向から、あまりひどい意見は流れてこないけれど、それでもXを見ていると否応なく心がザラザラするような文章も目に入ってしまう。ニュース記事を読んでいても、便利で物質面では豊かになった時代の、驚くほど殺伐とした人間の営みを感じたりする。

 

けれども、民俗学をテーマにしたこの物語には、日本人が失いつつある豊かな精神世界が広がっていて、乾いていた心がたっぷりと潤される思いがした。

 

民俗学といえば柳田國男、という程度の知識しかないため、それへの興味というより、たまたま弘前・松本と自分に縁のある地が舞台になっていることでよりこの作品にひかれたのだけれど、読み終わってみれば、民俗学というものにすっかり魅了されていた。

 

主人公二人の魅力もさることながら、

日本の神には、大陸の神に見られるような戒律も儀式もない。教会もモスクも持たない。それゆえ、都市化とともにその憑代(よりしろ)である巨岩や巨木を失えば、神々は、その名残さえ残さず消滅していくことになる。ニーチェは『神は死んだ』と告げたが、その死に自覚さえ持たなかったという点で、欧米人より日本人にとっての方がはるかに深刻な死であったと言えるかもしれない。

 

とか、

無論、私がここで言う神とは、迷える子羊を導いてくれる慈悲深い存在ではない。弱者を律し、悪者を罰する厳格な審判者でもない。たとえ目には見えなくても、人とともにあり、人とともに暮らす身近な存在だ。この神は、人を導くこともあれば、ときに人を迷わせたり、人と争ったり、人を傷つけることさえある。かかる不可思議な神々とともに生きていると感じればこそ、この国の人々は、聖書も十戒も必要としないまま、道徳心や倫理観を育んでこられたのだと私は考えている。

 

とかといった、主人公古屋神寺郎准教授の言葉にうたれたのだ。

 

日本中のあちこちで、より金の儲かる使い方をするために、長く生きてきた樹々たちがどんどん切られようとしている。まさに「今の世の中は、大金持ちと、大声を上げる奴らが正しいということになっている」時代だ。

 

正月早々の大地震で被災し前時代のままの避難所で大変な思いをしている人々をしり目に、声の大きい者たちによってまだ万博を開催しようとしている時代だ。

 

枝垂桜の老木のある寺の住職の言葉

昔のこの国の人たちは、美しいとはどういうことか、正しいとは何を意味するのか、そういうことをしっかりと知っていた。しかしどんどん木を切って、どんどん心を削ってきた結果、そういうことがわからなくなってきちまったんだ。わからなくなっただけならまだいいが途方に暮れて、困り果てたあげく、西洋にならって、なんでもかんでも金銭ずくで計算して、すっかりモノの価値をひっくりかえしてしまった。

(中略)

大切なのは理屈じゃない。大事なことをしっかり感じ取る心だ。人間なんてちっぽけな存在だってことを素直に感じ取る心なのさ。その心の在り方を、仏教じゃ観音様って言うんだよ。

 

上げたらきりがないほど、宝石のような言葉が満ちている。特別に学問しなくても、昔の多くの人が当たり前に持っていた心、山の峰や巨岩・巨木に神を感じ、誰がいなくても「お天道様が見ている」と感じるような謙虚な心を、今こそ取り戻す必要が・・・と思うけれど、もう時すでに遅いのかも知れないとも思ってしまう。

 

このままこの国が没落の坂を転げ落ちもっともっと貧しくなった時、八百万の神々を再び見るようになり、謙虚な心を取り戻す日が来るだろうか。

 

 

作品の内容はつるひめさんの素敵なブログに預け、もっぱら私の感想ばかり綴りました。