あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

新年最初の会議とランチ会

民生委員の新年最初の地区会があった。例年1月の地区会は土曜日の夕方から行い(通常当地区はたいてい水曜日の午前)、そのあとちょっとした宴席(とは言っても高齢女性の多いゆえか、ほとんどアルコールを飲む人はいないが)になるが、コロナのため一昨年からランチ会になった。

 

昨年11月で退任した一人も加わって、12人。いつも利用していた大きな洋室が空いていなかったそうで、今日は畳に椅子席が4つ設けられた小部屋で、定員ギリギリという感じだった。

 

昨年は体面相手と2メートル程はあるかと思われる大きなテーブルの広い部屋で、しかも料理を食べる間は完全な黙食だったが、今回はあちらのテーブルもこちらのテーブルも、食べる間も話に花が咲いていた。これがコロナ3年目の慣れ、だろうか。

 

主任児童委員さんの話だと、学校現場では、ただでさえ忙しいのに、先生の家族に感染者が出て先生が出勤できなくなるケースが増え、手が足りなくて非常に大変になっているとのことだった。

 

地域のユネスコ活動に参加して平和学習の出前授業をしていた頃、先生の仕事の軽減のために、かえって教師の負担を増やしかねない出前学習より、先生方の雑用のお手伝いボランティアをしたほうがいいのではないかと考えたことを思い出した(結局実行していないが)。

 

yonnbaba.hatenablog.com

 

本来なら行政が補完するべきだろうが、経費削減ばかり推し進めて、どこの現場も余裕がない。ならばせめて、地域で協力できる体制があったらと思う。専門家でなくても良い雑用は、どこの職場にもたくさんあることだろう。手の足りない現場と、時間を持て余し、人の役に立ちたいと思っている人を、うまくつなぐことができたなら・・・。

 

 

料理は例によって豊橋名物菜飯田楽。(お店のホームページより)

ゆっくりいきましょう

午前中に室内で5000歩を達成していたが、午後から買い物と賀状の投函に出かけたので、6500歩ほどになった。

 

賀状を投函しながら、これで、以前ならうまくいけば明日届くところもあったけれど、土曜日の配達のなくなった今は、良くて月曜日、青森などひょっとすると火曜日の到着になるかもしれないのだなと思った。

 

先日、土曜日の配達がなくなって以降、郵便物が届くのにかなり日にちを要するようになり、実質的な値上げ(郵便局が、急ぐものは速達やレターパックなどの利用を勧めているから)ではないかと主張する記事を読んだ。

 

私も、普通郵便の到着までの所要日数が長くなっている実感はあった。これは土曜日の配達がなくなっただけでなく、郵便局全体の「働き方改革」を行った結果ということらしい。

 

確かに、急を要することならば電話もメールもある現代だし、どうしても形あるものを送らなければならないのなら、速達やレターパック等を使ったところで、料金もしれていると思う。

 

昨年の暮れに、NHKで『まんが道~青春編』という古いドラマの再放送をしていた。漫画家の藤子不二雄さんの二人が上京し、2畳の部屋を間借りしたり、その後トキワ荘に住んで漫画を描いていた頃は、出版社からの急ぎの連絡が電報で届いているのを見て、そんな時代だったのだなあと感慨深いものがあった。

 

もっと便利に快適に、もっと早くもっともっと・・・と、人間の欲望は果てしがない。年末年始のお店の休みにしても、昔は世の中全体で一斉に休んでゆっくりしていたのに、いつの間にか他店より一日早く営業開始、うちはさらに一日早く・・・がエスカレートして、年中無休・24時間営業などという形態まで出現してしまった。

 

たいていの家庭で昔よりも大きな冷蔵庫を持ち、いっぽう食品は真空パックだの冷凍だのレトルトだのと、昔より長期保存できるものがいっぱいある。4日や5日商店が休んだところでそれほど困るはずはない。

 

ヨーロッパなどでは、バカンスシーズンにはほとんどの会社や店が休みになってしまうという。社会全体が休暇を当たり前の権利ととらえているので、大した問題にもならないらしい。そういう生活の中でのGDPと、日本のようにろくに有給休暇も使えず、体を壊すほどの働き方を強いられ、労働者がボロボロになったうえでのGDPを比べたところで意味はないように思う。

 

 

郵便屋さんゆっくり休んでください、と私は思う。それにとやかく言うのもやめましょう。これを一つの契機に、いい加減みんな気づかなければ・・・。せっかくこの世に生まれて、一度きりしかない人生を、もっとゆったり人間らしく楽しむ権利が私たちにはある!ということに。

 

きついほう、条件の悪いほうに合わせるのではなく、より恵まれているほうを基準にしていきたい。そうすれば、今のこのギスギスした社会も、少しずつ住みやすくなっていくのではないかと思う。まずはこの春の統一地方選挙で、そうした視点で投票したい。

 

 

の~んびり行きましょ!   byドリーム

静かに日常が動き出す

年賀状を投函に行った帰り道で、老人会のメンバーのKさんにお会いした。年頭の挨拶もそこそこに、「今度の例会はお休みします」と言われる。転んで骨折し、左足にギプスをしているとのこと。

 

Kさんは私よりちょうど一回り上の83歳。大腿骨などの入院の長引く部位の骨折でなかったのは、まだしも不幸中の幸いだろうか。かなり耳の遠い方なので、あまり細かく事情をうかがうこともできなかったが、私も近頃足元が不安定でよろめくことが増えているので、気を付けなければと思う。

 

通り道のスポーツジムの駐車場は、通常に戻って車がいっぱいだった(おそらく昨日からだろうけれど)。体重を落とさなきゃ・・・とトレーニングに励む人が多いことだろう。私も今日からは通常の食生活に戻り、ウオーキングも筋トレもしっかりやって、体重を落とさなければいけないクチだ。

 

えっ、キャットフード減らす?!    tamaさんのサイトより)

穏やかに新年のスタート

晦日の夕方次男が到着し、おしゃべりスタート。紅白もゆく年くる年も見ず、年が明けるまでひたすらおしゃべり。途中、長男家からLINEのビデオ通話の着信があったのだけれど、私のスマホはLINE着信の音が時々鳴らないことがあり気づかず。長男家には孫も帰省していて、5人でのLINE通話は元日の夜に。

 

元旦はおせちと当地のシンプル雑煮で祝った後、次男の車で墓参に。今日は夕方いつもの友人が迎えに来てくれて、次男は友人たちとの飲み会に出かけていったので、今3日ぶりの一人の夜を過ごしている。

 

yonnbaba.hatenablog.com

 

日本のお正月の、最低限の文化を守る程度のささやかな我が家の年越し行事や料理だけれど、豪華さよりも何よりも、家族みんなが元気で笑って話せれば、それ以上何を求めよう。両親や兄たちの眠る墓前でも、家族の無事な毎日を報告し感謝した。

 

ここ数年、年賀状は元旦に、下さった方にだけ書くことにしている。そして書き終えた賀状を持って「腹ごなしを兼ねて投函してくるわね」と家を出たのだけれど、宛名に間違いはないかと歩きながらパラパラ見ていて気付いた。あとでハンコを押そうと思って、まだ差出人欄が空白だったことに!

 

急いで引き返し、「新年早々またやらかすところだった!」と家に駆け込んだ。ハンコではインクが乾くのを待たなくてはならないので、たくさんたまっているユニセフのシールを使うことにした。大急ぎで貼って、あらためて郵便ポストへ。

 

今年もオッチョコチョイ&ボケを連発しそうな幕開けです。

 

 

皆様あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

ピンタレスト画像より)

今年280本目のエントリー

ブログ画面サイドバーの月別アーカイブを見ると、今年のエントリー数が279になっている。するとこれがちょうど280本目。いや、300なら分かるが280で「ちょうど」と言うのもどうなんだろう。

 

簡単だけれど外回りの掃除を済ませ、年越しそばの材料や墓参用の花も買ったし、後は次男の帰省を待つばかりで、ほぼ新年を迎える準備も完了だろうか。お節料理の手作りに燃えたり、大掃除に目を吊り上げたりしていた時期もあったが、良くも悪くも気力も体力も衰えてきて、ほどほど、ほどほどでいいじゃないのという気分だ。

 

ここ数年は出来合いのおせちをネット注文して済ませている。こうしておせちを外注してしまうと、年末のスーパーであれこれ目移りさせられながら、これもいるかしら、あれもいるかしら・・・と悩まなくていいのがストレスの軽減になって良い。

 

年末から年始にかけて、商店が長い休みになってしまった昔を思えば、なにもいっぱい買い込む必要などない。私の利用しているスーパーなど年中無休(しかも24時間営業!)だし、2日になれば多くの飲食店も営業を始める。それなのに、ついついあれもこれもと心配になってしまうのが年末だ。

 

さて、私にとっての2022年は、やはりウクライナ戦争勃発の年。でも、今年の一字は何と言っても「壺」。「戦」が選ばれたけれど、「壺」に注目されたくない勢力が手を回したのではないかと疑っている。

 

新しい年は、日本や世界にとって、今年よりは良いことの多い年になってほしい。ウクライナにはなんとしても平和が訪れてほしい。弱い立場、困った状況にいる人たちが、希望を見いだせる年であってほしい。私個人に関しては、現状で十分ありがたい日々だと思っている。

 

今年のブログは今日でおしまい。つたない文章を一年間お読みいただき本当にありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。

 

 

ご近所さんに頂いた来年の干支の和菓子。そう言えば、来年は私の年。年女です。

 

 

子供たちのダンスに目を見張る『マチルダ』

ずっと掃除モードにスイッチが入らずにいたが、今週は毎日一か所程度のペースで進め、小さな家でもあり、一人の静かな暮らしで大した汚れでもないし、大掃除とはとても言えない手抜き仕事でもあって、なんとかほぼ終了と言える状態になった。

 

イギリスの舞台で評判を得、ブロードウェイまで進出したミュージカル『マチルダ』の映画版が25日からネットフリックスで配信になり、早速鑑賞した。

 

ストーリーは、望まれない子供として生まれたマチルダ(アリーシャ・ウィアー)が、両親の虐待とも言える対応のもとで育つが、生まれ持った大変な能力と不屈の心で、優しい教師や友人たちと、監獄のような学校で自由を得ていくというものだ。

 

このマチルダが入れられた学校というのは、鬼のようなトランチブル校長が支配しているのだが、この鬼校長を演じているのがエマ・トンプソン。キャストには確かに彼女の名前があったけど、どの役なの?どこに出ているの?と思うほどの変貌で鬼校長を演じている。ほとんどすっぴんに体は詰め物?でアニメのキャラクターのような風体。

 

この姿で生徒たちを罵り、いじめまくる。

 

チルダは学校に通わせてもらえていなかったのだが、転入初日から天才的な能力を見せ、担任のミス・ハニー(ラシャーナ・リンチ、澄んだ歌声が素晴らしい)を驚かせる。優しく子供たちに理解のあるミス・ハニーは、なんとかこのマチルダの才能を伸ばしてやりたいと願う。

 

一方的に校長の理不尽に耐えるばかりだった生徒たちも、マチルダが一人果敢に戦う姿を見ているうちに勇気を得ていく。それまで全く校長に逆らえなかった生徒たちが、異議を表明して、一人また一人と机の上に立ち上がっていくところは、あの名画『いまを生きる』の感動的な名シーンを思い出させる。

 

 

また、鬼校長と戦うシーン始め、子供たちの集団のダンスが素晴らしい。

 

読書が好きなマチルダが、自分の脳内で紡いでいた物語とミス・ハニーの境涯がリンクしていることが分かり、彼女もまた校長の理不尽によって親の残した家も失っていたことが分かる。心優しいミス・ハニーは、小さな小屋での暮らしでも幸せだというが、マチルダの心にはふつふつと校長への怒りがわき上がる・・・。

 

コンプライアンスで骨抜きになりがちな昨今、この物語でのトランチブル校長の悪辣ぶりは、良識派は眉をひそめそうなほどすさまじい。けれども、校長が凶悪であるほど、子供たちの抵抗は輝く。終盤の雨の戸外での、泥んこになっての生徒たちの群舞はとりわけ感動的だった。

液体の日本人、固体の西洋人

一昨日紹介した『すべてがFになる』の中に、興味深い話があった。主人公の犀川助教授の言葉として出てくる。

 

日本では、一緒に遊ぶとき、混ぜてくれって言いますよね。混ぜるっていう動詞は、英語ではミックスです。これはもともと液体を一緒にするときの言葉です。外国、特に欧米では、人間は、仲間に入れてほしいとき、ジョインするんです。混ざるんじゃなくて、つながるだけ・・・。つまり、日本は、液体の社会で、外国は固体の社会なんですよ。

日本人って、個人がリキッドなんです。流動的で、渾然一体となりたいという欲求を社会本能的に持っている。欧米では、個人はソリッドだから、けっして混ざりません。どんなに集まっても、必ずパーツとして独立している・・・。ちょうど、土壁の日本建築と、煉瓦の西洋建築のようです。

 

 

なんだか非常に納得のいく説だ。渾然一体となって混ざるのが望ましいから、混ざらないものは「水と油」と嫌われ、とけ込まないことを「浮く」と言って非難する。ソリッドならば、いつでも元の個人に戻れるし、次にまた違うソリッドとジョインして新しい状態を生み出すこともできる。

 

液体で渾然一体となって溶けてしまうので、その結果起きた事象に、元の個々の液体として責任を感じることもないのかもしれない。なかなか興味深いたとえのように思う。

 

 

だんご状態だけど、もとの個体を失ってはいニャイよ。(ねこのきもちさんのサイトより)