あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

やっと芽吹いたかも知れないものを育んでいこう

スタンディングに始まる市民活動らしきことをしてきたこの5年間、連戦連敗という感じで、初めの頃「相手が強大なほど闘志がわく」なんて言っていた気の強い私も、さすがにほとほと気力をくじかれ、時々、諦めてしまった方が楽かしらという気持ちすら頭をもたげるこの頃だった。

 

それが、先日のTwitterデモ「#検察庁法改正案に抗議します」の盛り上がりで、やっと成功体験を味わった!と喜んだのもつかの間、黒川氏のかけマージャン発覚で、くだんの法案を見送ったのも、こうした展開を知った官邸側が、傷を浅くするために打った手だったのではないかなどという情報を目にして、ぬか喜びだったのかと少々落胆していた。

 

でも、セネシオさん(id:cenecio)の昨日のエントリーで、9日夜から10日の未明にかけてのTwitterの盛り上がるようすや、ルモンドやロイターがこの件を取り上げたことなどを知って、また活力が湧いてくるような気がした。あまりうがち過ぎることはない、ここは素直に喜べばいいではないかと思った。

 

cenecio.hatenablog.com

 

多くの芸能人の方々が声を上げてくれたことで、それに対するバッシングも一気に可視化され、「政治の専門家でなくても、誰だって声を上げていい」「私たちは民主主義の主権者なんだから、私たちが権力の行使を委託している政治家に注文を付けるのは当然」などの声も多く上がり、多くの人にとって良い経験になったのではないだろうか。

 

文字通り市民が血を流して勝ち取ったような国に比べ、日本は敗戦の苦難はなめたものの、民主主義は天から降ってきたかのごとく手にしてしまった。戦後復興の圧倒的な右肩上がりの時代に、平和や民主主義に心を煩わすことなく、ひたすら経済復興・隆盛のみに注力してひた走ってきてしまった。

 

安保法制が強行採決されてしまった後のスタンディングに、私は「さあ、民主主義を始めよう!」というプラカードを持って参加した。今までこの国に本当の民主主義なんてなかったのだと気が付いたからなのだが、昨日セネシオさんのブログを読んで、「ああ、こうやって民主主義を育てていくんだな・・・」と感じ心を揺さぶられる思いがした。

 

5年前、国会前に多くの人が集まり、各地でも連動して声を上げ、そうしてやっと芽吹いた民主主義の芽。まだまだ頼りない幼い芽なのだ。水をやったり、必要なら添え木をしたりして、手をかけて育てていかなければいけない。放っておいてぐんぐん育つものではないのだ。

 

幸い今の私たちには、スマホという軽便なツールがある(それが使えない人にも、メールや葉書、さらに他の先進国では絶滅したそうだがファックスという手段もある)。新型コロナウイルスの第二波・第三波を考えれば、まだまだリアルデモができる日は来ないかも知れないが、声を上げる手段も繋がる手段もある。しかも昔と違って、ネットなら本職の政治家と影響力のある著名人と一般市民が、同じ地平で繋がることもできるのだ。

 

 

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芽は育ったかニャ?            (画像はネットからお借りしました)