あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

機械油と汗と本、『わたしの、好きな人』八束澄子著

さやかは12歳。小学6年生だが、彼女を生むとすぐ母親はいなくなってしまったため、父と8歳上の兄と、あとは彼女が物心ついた時からずっと住み込みで家業の鉄工場で働いている従業員の杉田と、男ばかりの家庭の唯一の女性であるゆえか、主婦代理のような、年齢よりも少し大人びた面を持っている。

 

いなくなった母親と入れ替わるようにふいと現れた杉田は、父親の言によれば「手負いのイノシシ」のような傷ついた暗い目をして現れ、「なんも聞かんと雇ってくれませんか」という杉田を、父親はなんも聞かんと受け入れた。

 

母親は「さやかを生んだため」に育児ノイローゼになり失踪したと思っている兄は、母のいない寂しさを妹のせいと思い込んでいて、部屋に引きこもりがちなうえ、さやかにはつらくあたる。そんな兄なのに、父はなぜか兄に甘いとさやかは不満に思っている。

 

けれども、母のいない寂しさも兄の横暴も、いつも大きく包み込んでくれるような杉田の存在に、さやかは救われている。

 

ある日父親が脳梗塞で倒れ、そのショックで兄までがいなくなってしまい、さやかは家に杉田と二人で取り残される。それでなくてもたった二人でやっと経営していた工場が、大黒柱の父を失ってどうなるのかは不安なのだけれど、杉田と二人だけの日々に秘かにときめくものも感じている。

 

やがて父親は左手左足に軽い障害の残る体で退院してくる。12年間車を運転しなかった杉田だが、「おやっさん」が運転できない以上自分がするしかないと、練習をして軽トラの運転を始めるが、実は15年前に免許は失効していた。

 

大変な家庭の状況を抱えながら、修学旅行や、仲良しの日伯混血の美少女セイラと、12歳の少女らしい日々も語られる。

 

失踪した兄は離れた土地で新聞配達をして暮らしていたが、父によって呼び戻される。かつては自堕落な生活で醜く太ってしまっていた兄が、まるで別人のように精悍な体と顔つきになって戻って来る。そして父親はリハビリで徐々に回復するが、兄は工場を継ぐ決意をして技術や経営面の勉強に励む。

 

なんとか傾きかけた工場が軌道に乗り始めたある日、杉田は全員の前で過去の自分の罪を告白する・・・。

 

12歳の少女の胸を締め付ける恋心。相手は赤ちゃんの時からそばにいた、家族のような人。それゆえ簡単に思いを告げることもままならず、ますますせつなく大きくなっていく。ちょっとしたことに舞い上がってみたり、沈み込んだり、少女の心がいじらしい。

 

機械油と汗にまみれながらも、知性がにじむ杉田のたたずまいが魅力的。また、おりおりにさやかの慰め役となる、雄猫の小太郎の存在感も光る。最後にさらりと綴られる8年後が爽やかだ。