あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

青森の友との電話

津軽の地を離れて30年になろうとしている。いまだに暮れになると、何人かの友人が米やリンゴを送ってきてくれる。私もささやかながら、当地の名産を送る。お互いに荷が届くとお礼の電話をするので、年に二度ずつ声を聞くことになる。

 

ゆうべ、そのうちの一人から電話があった。私とは、隣り合った地域で公文の教室をしていた仲間だ。当時は青森市にある事務局での講習に、私の運転する車に彼女を乗せて、高速を使って行っていた。運転が嫌いで、そしてへたくそで、おまけに道路にも疎い私が人を乗せて高速道路を走っていた(おまけに冬は雪道)なんて、今思えば何と怖ろしいこと。

 

その彼女の教室が、今年は40周年だったと言う。私が教室を開いた時、彼女は4人目のお子さんを生んで講習会などは休んでいた時期だった。4人のお子さんを育て、農家の嫁として農業にも従事しながらの、40年の教室運営だ。

 

やっと10年継続しながら、長男の大学進学を自宅通学にするためなどという口実で、自営業の重圧から逃げ出した私は、彼女の大変なバイタリティーに頭が下がる。私より一つ二つ若いので、50周年も夢じゃないわねと話した。

 

公文式の教室は「三蜜」の典型のような場所なので、コロナ禍になってやはりどの教室も多かれ少なかれ生徒を減らし、なかには廃業された方もいると言う。他の仕事を兼業していたり、配偶者の収入がある人はまだ持ちこたえられるだろうけれど、私などあのまま続けていたら、自営業で国民年金だしコロナ禍で生徒が減って・・・と、365連休などという今ののんきな生活はなかったことだろう。地元の国立大に長男の希望する工学部がなかったことに、今となっては感謝しなければならない。人生は何がきっかけでどう転んでいくか分からない。

 

いろいろあったけれど、今はすべてに感謝したい気分だ。今の平穏な生活のありがたいこと。

 

 

ボケボケだけど、次男を抱っこして雪灯籠祭りの弘前公園を歩く私。