「サグラダ・ファミリアの尖塔に、首を縛られた人間が吊られていた」という猟奇的なシーンで始まる物語は、読んでも読んでもなかなか謎は解明されず、主人公と一緒にバルセロナの石畳の道をたどり、怪しい追跡者にドキドキする思いになる。
事件の発覚と同時に姿を消した父を探して、志穂は事件にかかわっていく。同時に友人のルイサが夫ラモンのDVに遭っていることを知り、彼女とその娘で車椅子生活のマリア・イサベルが、ラモンのもとから逃げ出すのを手伝う。
殺人事件の発端は、ガウディが遺したサグラダ・ファミリアの設計図らしいのだが、問題の設計図がどこに隠されているかは二重三重の謎に包まれていて、カタルーニャ語やカスティーリャ語も絡んでくる。
実際にあるガウディの建築もふんだんに登場し、どこまでが事実でどこからが作者の創作なのか、読み手もガウディ建築の迷宮に引き込まれていく。
冒頭の凄惨なシーンに驚くが、物語には幾組かの親子・夫婦・恋人や友人が描かれ、そうした家族や大切な人と、ちょっとしたことですれ違ってしまったり誤解が生まれたりして、恨んだり憎んだりすることの愚かさを説いているように感じた。
バルセロナの街やガウディの建築の魅力を背景に、人間の憎みあいと理解の複雑な絡み合いを描いて、なかなか読み応えのある作品だった。
主人公の志穂が街中で買い物をしているちょっとしたシーンに、心に残る描写があった。市場で肉を買おうとするのだが、店には長い行列ができている。やっと自分の番が来て品定めをする。
「背後に並ぶ客たちは、買い手がじっくりと選ぶのは当然の権利として文句ひとつ言わず、互いに会話しながら待っている」。
自分の権利を大切にし、同じように他者の権利に敬意を払う、これが成熟した民主主義の社会。
また、グエル公園について書かれた部分では、
「ガウディはこの公園を造ったとき、他から土や岩を運んでこず、掘り出したものを積み直して利用した。材質感を統一するためだけじゃなく、生命尊重の考え方があったからなんだ。こんな話があるよ。階段を予定した場所にあった邪魔な樹木を職人が切り倒そうとしたときだ。ガウディは、『この木がここまで成長した歳月と我々が階段の場所を変更するのに要する時間と、どちらが長いだろう』と言って、階段の位置の変更を指示したそうだ。それだけ自然を重んじていたんだね」
どこかの開発をしたがっている関係者たちに聞かせたいものだ。ガウディへの興味がいや増す読書となった。