あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

心の薬『蜜柑』芥川龍之介著

春ドラマと夏ドラマの端境期で、録画される番組も少ない。ネットフリックスも、探し方がうまくないのかも知れないが、見たいと思うような作品に出合えない。

 

借りていた本は読み終えているので市民館に出向けばいいのだけれど、この一週間、なんとなくその気分にもなれないままになっている。

 

さすがに手持無沙汰で、こんな時には・・・と「ちくま文学の森第2巻『心洗われる話』」を取り出した。

 

最初に佐藤春夫の『少年の日』という詩が掲載されていて、次にくる作品が芥川龍之介超短編『蜜柑』である。

 

言いようのない疲労と倦怠を抱えた「私」が、横須賀発の二等客車に腰を下ろしてぼんやり発車を待っていると、発車の笛が鳴ってから十三、四の娘が駆け込んできた。油気のない髪をひっつめの銀杏返しに結い、頬はひびだらけ手は霜焼けのいかにも田舎臭い娘だ。

 

しかもその霜焼けの手に握られているのは三等の切符。「私」は娘の下品な顔だちも不潔な服装も不快だし、二等と三等の区別もつかない愚鈍さも腹立たしかった。

 

そのうえ汽車がトンネルに入るというのにその娘は窓を開け、一気に入り込んできた煤を溶かしたようなどす黒い空気に、元来咽喉を害していた「私」は息もつけないほど咳き込む羽目になった。

 

けれど小娘は「私」に頓着もなく、窓から身を乗り出している。汽車がすぐにトンネルを抜けると、ものさびしい踏切りの柵の向こうに頬の赤い三人の男の子が立っている。彼らは汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げいたいけな喉を高く反らせて喊声を迸らせる。

 

するとその瞬間、窓から身を乗り出していた例の娘が、「あの霜焼けの手をつとのばして、勢いよく左右に振ったと思うと、たちまち心を躍らすばかり暖な日の色に染まっている蜜柑がおよそ五つ六つ、汽車を見送った子供たちの上へばらばらと空から降って来た」。

 

何度読んでも見事というほかない場面だ。それまで娘の周辺を描写する言葉は悪意に満ちていたが、ここにくると、少年たちの喉は「いたいけ」であり、娘の投げる蜜柑も「心を躍らす」「暖な日の色」なのである。「私」の心情の変化を見事に表している。

 

おそらくこれから奉公先に赴くのであろう娘は、懐に蔵していたいくつかの蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切まで見送りに来た弟たちの労に報いたのだろうと「私」は推測する。

 

そうして、「私」は言いようのない疲労と倦怠とを、そうしてまた不可解な下等な、退屈な人生を、僅かに忘れることができたと終わる。

 

 

格差が広がり、まともに食べられない子供が増えていると言われる現代の日本だが、さすがに十三、四で奉公に出されるという時代ではない。けれどももっとこたえるのは、この娘と弟たちのような家族の情愛が、はたしてどれほど残っているだろうかということだ。

 

モノがあふれ便利さが社会の隅々まで席巻し、貧しさの形も随分変わっているように思うが、それでも人の心を打つものはそんなに変わっていない気もするし、そうあって欲しいとも思う。

 

ただ、こうした物語に心を動かされる人は減っているかもしれない。とりわけ永田町界隈では。

 

以前この作品を読んで書いたエントリー:

yonnbaba.hatenablog.com

 

 

安野光雅さんの装丁も素敵な「ちくま文学の森」シリーズ。