あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

一冊で一日の物語と三十年の物語

先日恩田陸さんの『夜のピクニック』を読み終わり、今日乙川優三郎さんの『ロゴスの市』を読み終えた。どちらも楽しい読書だったのだけれど、考えてみれば対照的な作品だった。

 

かたや342ページを費やして高校3年生の「鍛錬歩行祭」の一日を描き、かたや261ページで、20歳で出会った男と女の30年余りを描いている。舞台も片方は高校生の生活圏の国道や畑や住宅地の道であり、片方ではヒロインは世界を飛び回る同時通訳を生業とし、話は複数の国に広がる。本の世界はかくも変化に富み楽しい。

 

夜のピクニック』はmarcoさんの書評に触発され手に取った。

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若いっていいなあと思いながら、半世紀以上昔に少女だった私でも、引き込まれ楽しめる物語だった。

 

それにしても一冊で一日を描く小説もすごいが、これを映画にするとか、さらに舞台劇にもしているというのだからエンタメの世界は面白い。どんな作品になっているか、興味深いことだ。

 

 

『ロゴスの市』は前に同じ著者の『この地上において私たちを満足させるもの』の感想を書いた時に、コメント欄でAO153さん(id:A0153)に教えていただいた作品だ。『この地上に・・・』の主人公は作家だったが、今回の作品の主人公は翻訳家、やはり言葉と厳しく戦う人だ。彼が心をひかれる女性は同じ英語と母国語との格闘でも、1秒と逡巡していられない同時通訳者の道を進む。

 

ひかれ合いながら、環境や性格の違いから二人の人生はすれ違い、再び交わる時には皮肉な状況になっていて・・・と書くと陳腐なメロドラマめくが、作品は全くそう感じさせない精神性の高いものになっている。それは、著者の言葉や文章に対する厳しい姿勢のたまもののように思う。

 

三鷹のキャンパスには新入生と分かる男女が目立つようになって、弘之は歩きながらも彼らの言葉を収集した。会話文の参考にするためだが、ほんの数歳の違いでも口調の変わることに驚き、省略語や流行語の多い言葉遣いに失望もする。彼は翻訳のために日本語を見つめながら、文化の素粒子の部分で刻々と退化している日本人を眺める心地がした。

 この部分に思わず「うんうん」と大きく頷いてしまう。言葉は時代とともに変わる運命であり、ほかの言語でもそれはあることだろうが、今の日本語の変わりようは空恐ろしい気がする。「文化の素粒子の部分で退化している」というのは鋭い指摘だと思った。

 

それにしても、これほどに、身を削るように血を吐くように呻吟して生み出される物語を、居心地の良い居間でぬくぬくと楽しめる読者でいる幸せを思う。創出する才のなさも、表現せずにいられない何物も持たないことも残念なことではあるけれど、やはり「選ばれてあること」の大変さに、怠け者の私は、幸せな読者であり気楽な言葉で遊ぶものの地位に感謝する。

 

 

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