あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

ひたひたと心を満たす『きみのためのバラ』池澤夏樹著

勘違いから、乗るはずの便を逃し空港で戸惑う男の物語に始まって、世界各地を舞台にした物語を集めた池澤さんの短編集。出不精でいまだ自分の国を一歩も出たことのない私でも、寒中の日本に居ながらにして、南の島に行ったり、ここ以上に寒々とした北欧の空の下に立ったり、さまざまな人に出会ってきたかのような気分に浸る。

 

都市生活

搭乗手続きをしようと思うと、自分が乗るはずだった便はとっくに飛び立った後だった。キャンセル待ちをなんとか確保し、時間つぶしのレストランで出会った女性との物語。

 

レギャンの花嫁

楽園のようなバリで、結婚を間近に控えた美男美女カップル。ところが男性の方が風邪をひき、結婚式までに治したいと飲んだ薬がもとで当然死んでしまう・・・。

 

連夜 

大学を出てから、沖縄で気ままなバイト生活をしていた男。仕事先の病院で中年の女性医師と付き合うようになるが、それは愛とか欲とかではなく、琉球王朝時代の姫君の「乗り移り」だった。

 

レシタションのはじまり

レシタションは悪魔ならぬ神が広めた疫病、人を不幸の底に落とすのでなく平安の至福に高めるもの。疫病のごとく、ある地方に現れたと思ったらたちまち国境を越え、大陸を覆い、海を渡り、世界全体を輝かしい色に染めた、という。

恋敵に襲われ瀕死のけがを負って山深くで意識を失った男は、そこで暮らす先住民「逃げる人々」の手厚い看護で回復する。その人たちは、わがままな子供がいると、その子の耳元で何事かささやく。すると子供はたちまち穏やかになる。大人の間で何か争いが起こりそうになると、手をつなぎ不思議な言葉を唱える。それがレシタションだった。

多くを望み過ぎない、素朴で感謝に満ちた穏やかな「逃げる人々」の暮らし。傷も癒えて元の町に戻った男からレシタションは世界へと広がっていく・・・。

佳作ぞろいだが、この物語がもっとも心に残った。

 

ヘルシンキ

冬の間は太陽が高く昇らず暗い気分になりがちな北の国で、手放した娘と法定の面会の日を過ごす父親と知り合う。その父親は男と同じ日本人だった。ロシア人の妻との破綻に至る話を聞かされる。妻と私は日本語とロシア語で話していたようなものだと話すのを聞いて、男は自分たち夫婦もそれと同じだったと思う・・・。

 

人生の広場

ドイツ人の友人は、人生の広場で立ち止まったことがあるかと問うた。自分はかつて思いがけなく手に入った叔母のささやかな遺産で、それが続く限りのパリ暮らしをしたと、40年ほど前の日々を彼は語り始める。

 

20マイル四方で唯一のコーヒー豆

家族と離れカナダで暮らす少年。観光客を案内するボートや、レストランの手伝いなどをしている少年の様子を描くうち、徐々に彼の事情が分かってくる。心に傷を抱えた少年と、さりげなさの中に温かい思いやりを感じさせる人々との静かな暮らし。

 

きみのためのバラ

若き日、憧れのアメリカ旅行をするが、傲慢さや他人を排除しようとする空気にしだいに疲れていく男。逃れていったメキシコの混雑した列車で、美しい少女に巡り合う。駅のホームの花売りから買ったバラを、列車内の人をかき分けて数車両先の少女を探して手渡す。もう二度と会うこともない少女に・・・。

 

 

今の日本に、世界に、レシタションが欲しいと切実に思う。

 

 

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