あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

不思議な魅力をたたえる『フォグ・ハイダ』森博嗣著

タイトルに惹かれ書棚から取り出した。そして装丁にまた惹かれた。等伯の松林図屏風を思い出すような、しっとりとした霧の風景。パラリと開いて読んでみると、なんと時代小説だった。

 

こうして読み始めた本作品だったが、期待を裏切らない、素晴らしい作品だった。

 

主人公は剣の道を追及する若い武士ゼン。無駄をそぎ落とした簡潔な地の文は、このストイックな若者の生き方を表すに実にふさわしい。そして対照的に、会話文は呆れるほどなんでもない会話まで拾う。ゼンは無口なので、それは必然的に他の登場人物のものが多くなるのだが、会話がみごとにその人物を描き出し、触れれば切れてしまいそうなゼンの厳しい生き方をいっそう際立たせ、いっぽうで物語に温かさや優しさを生み出している。

 

読み進むにつれて、主人公はどうやら山で仙人のような師カシュウに育てられ、親とか家庭というものを知らないらしいことが分かる。そのカシュウに山を下りて都に上がることで、さらに剣の道を究めるよう言われて旅の途中にある。

 

その旅の中で、誤解から命を狙われる剣の使い手キクラと出会い、そのキクラと同じ道場だったというチハヤとも知り合う。忍びの女としてリュウやナナシが登場するが、彼女たちは口の利き方も身のこなしもほとんど男だ。

 

普通の女性としては、キクラが連れている病身(肺を病んでいるらしい)のフミや、ゼンを慕っているらしい旅の三味線ひきノギ、彼らが逗留する宿の女スズなどが登場する。どの登場人物もすべて名はカタカナでしかも記号のような「名」のみというのも、この独特な物語の雰囲気づくりに貢献しているようだ。

 

遭遇してしまった強盗と戦ったり、飛び道具まで持った大勢の追手と戦うキクラに助太刀したりで、心ならずも人の命を取る経験をするゼン。剣を極めたい思いと、人を殺めてしまうこととの間で思い悩む。

 

そうしたなかで、ゼンは剣を極めたものが学ぶものは、剣だけのことではないと知る。剣だけのことではないところに剣の道がある。なにかの技を極めれば、すべてが見通せるのに違いないという予感を得る。

 

この物語は「ヴォイド・シェイパ」というシリーズ物の4作目であるようで、本作もまだゼンの旅の途中で終わる。この清らかでまっすぐな若い侍が、どのような境地にまでたどり着くのか非常に興味を覚える。前の3作も、後の5作目(2011年から年に1作のペースで出版され、その後はないのでこれで完結か)も読んでみたいという気になる。

 

プロローグと、1~4話の前の5か所に『五輪書』の一部の引用があり、これも非常に効果を上げているように思う。醜い現世で疲れる心を、洗われるような読書だった。