読み終わったリクエスト本3冊を抱えて、生涯学習センター(旧地区市民館)に返却に行った。図書室の書棚に『推し、燃ゆ』があった。2021年第164回の芥川賞受賞作だ。
著者宇佐見りんさんは1999年生まれなので、本作出版時(2020年9月)は21歳だ。現在の我が孫よりも若い。そうした世代にとっては何の不都合もないのかも知れないし、世の中からも絶賛を受けたのだから、きっと抵抗を感じる私がどうかしているのだろう。
ニュースで芥川賞受賞作として耳にした瞬間から、私はこの『推し、燃ゆ』というタイトルに馴染めなかった。それ以前に「推し」という言葉自体が受け入れられずにいた。その「推し」という新しい言葉に、なにゆえ「燃ゆ」という古語ふうの言い回しをつなぐのか・・・。その新鮮さが良いのだろうか。「寛容」が残りの人生の課題だと言いながら、なかなか寛容になれない私はどうも抵抗を感じてしまう。
それでも、せっかくこうして図書館の書棚で出合ったのだから、食わず嫌いはやめてまずはとにかく読んでみよう、読んだら意外にいいかもしれないと思い借りてきた。
・・・で、結局まるで分らなかった。この時の選評を見てみると、選考委員は平野啓一郎氏が40代、島田雅彦氏ほか4人が50代で、あと川上弘美氏ほか4人が60代で、50代の吉田修一氏以外は全員好意的な選評だった。
現代に生きる若い人の「生きづらさ」のようなものはひしひしと感じられたが、でも、なぜこうも生きづらく感じるのだろう。私も現代にティーンエイジャーをしていれば、生きづらさを感じるのだろうか。案外あっけらかんと生きてしまっていそうな気もするのだけれど・・・。
今日から始まった新年度の日本語教室。私のグループは『吾輩は猫である』をやめて、日本語中級のテキストを学び始めたのだが、その中の「・・・のように」の例文に、「彼は田舎の父から来た手紙を読んで、子どものように泣いた」というものがあった。
この文を見て学習者の一人が、「これは古いね」と言った。今は遠く離れていてもLINEなどでしょっちゅうやり取りできるし、顔を見ながら話すことさえできるから、長く会わないでいた父親からの手紙に感激して泣くということはまずないと言うのだ。そのあともっと急ぐときは電報で連絡を取ったことなども話題に上り、世の中の変化の話で盛り上がった。
それこそ宇佐見りんさんのような「Z世代」など、便箋に何枚も肉筆で綴られた「手紙」というものを知らないということもあり得る。そして遠く離れた人から久々の手紙をもらい感激する、という情感が理解不能かもしれない。私が『推し、燃ゆ』を理解できないように。
私がティーンだった時、好きな人を映画に誘いたくて、家のあの黒くてジーコン、ジーコンとダイヤルを回す電話機の前に座り込んだことが忘れられない。十代の男子が電話を取る訳はなく、ほぼ100パーセント家の人が出るだろうから、うまく話せるだろうかとドキドキして、ダイヤルするまでにかなりの時間を要した。
いつでもどこでもダイレクトに目指す人につながってしまうスマホの時代に、そんな経験を話しても理解不能なことだろう。あれもこれも変わっていく。世の中は変わっていく。変わらないのは自民党の金権政治と、経済界の弱肉強食の精神くらいか。これこそ変わってほしいものだけれど。