あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

成長と命について考えさせられる『キップをなくして』池澤夏樹著

いつもなら、ちょうど子供たちが夏休みの宿題にラストスパートをかける頃だろうか。読書好きな高学年の子なら、読書感想文に恰好の本かも知れない。コロナで余り出歩けない今、旅行好きなら、この読書で北海道を旅した気分になるかもしれないし、鉄道好きならさらにたまらないことだろう。

 

これは一人の少年の成長物語。自分が生まれた昭和51年に発行された切手を集めるというコレクションをしていて、今日手に入る切手でそのコレクションが完成すると、少年イタルがウキウキしながら山手線に乗っているところから始まる。

 

目的の駅有楽町に着いて、改札口に向かって歩きながらキップを出そうとすると、ポケットにキップがない。慌てて立ち止まって、反対側のポケットも探してみるがやっぱりない。小学校2年生の時、初めて一人で電車に乗る時にママが言った「切符をなくしちゃダメよ。キップをなくすと駅から出られなくなるから」という言葉がよみがえる。

 

混乱しているイタルの前に、中学生くらいかなと思われる女の子が現れ、「キップをなくしたら駅から出られないの」「おいで」と言って、スタスタと先導して歩き出す。もう一度電車に乗り、次の駅で降り、イタルが連れられて行ったところは東京駅の中にある不思議な場所だった・・・。

 

こうして、キップをなくした子供たち―「駅の子」としてのイタルの暮らしが始まる。朝は職員食堂でご飯やみそ汁の朝食を食べ、昼は何種類かの駅弁から選んだもの、夜は駅構内の「レストラン東京」か「和食のけやき」で食べる。朝の通学時間と午後の下校時間に、電車を利用する子供たちを守るのが「駅の子」たちの仕事だ。

 

現在いる「駅の子」で一番古くて一番年長のキミタケさんは、「駅の子」を卒業することになり、イタルたちが見つけたひどく暴力的なタカギタミオや、学校に行くのが嫌で山手線に一日中乗っているという中学生のフクシマケンが、新しく仲間に加わる。

 

みんなが食事をするとき、いつも何も食べようとしない小さな女の子ミンちゃんのことがイタルは気にかかってしかたがない。触れてはいけないような雰囲気の中、それでもどうしても気になってある日イタルは「どうして何も食べないの?」と尋ねると、ミンちゃんは「わたし、死んだ子なの」と言った。

 

学校に行く途中で駅のホームから落ち、そこにやってきた電車にひかれたのだという。去年のクリスマスにおばあちゃんが死んだばかりで、一人残されるママを思うと心が残り、ミンちゃんは天国に旅立てないでいるのだった。

 

さまざまなことがあって、結局天国に行く決心をしたミンちゃんとの最後の思い出に、みんなでミンちゃんのグランマのお墓のある北海道まで旅をすることになる。不思議な手はずはすべて「駅の子」を統括している特別な「駅長さん」という人がしてくれているらしい。

 

こんな特別なことができる「駅長さん」なら、ミンちゃんを生き返らせることもできそうだが、それはしない。でも、ミンちゃんはちゃんと8年の人生に満足して去る。生きるということ、死ぬということ、命というものを考えさせられる。充実は、長さではない。

 

あり得ない設定のファンタジーノベルだけれど、細部が丁寧に描かれていて、大人が読んでも、すんなりこの世界に引き込まれ違和感を感じない(もちろん、とても受け入れられない人もいるだろうが)。

 

 

人は、他者を思いやり、他者のために働くことで成長するのだろうなと思う。冒頭ではじつに頼りなく幼い感じがしたイタルが、ミンちゃんを心配したり、通学途中の小さい子たちを守る経験をしたりして、後半ではすっかり頼もしくなっている。

 

「あの方」や「あの方」のようなお坊ちゃまの幼少期がどんなものであったのか、庶民の私には分からないが、テレビが茶の間に入り込んでくる前までは、日本中のいたるところに子供の集団があったはずだ。そこでは誰もが、年長になるにつれ嫌でも年下の子を思いやり、面倒をみるという経験をした。

 

あの方やあの方たちは、おそらくそうした経験もないのではないだろうか。大人になってもずっと周囲から気を使われ、何でもしてもらう立場で来ているだろう。だから、今も、選ばれて特別に偉い人になったと思い込み、与えられた権力は、自分たちが国民のために働くためにこそ使うのだという自覚も持てずにいる。

 

 

現代は子供が少なくて大切にされ、大人の目がよく届くようになった面もあるけれど、それが人生という時間の中で見た時、幸いであるかどうかは別だろう。反対に、過酷な条件下にいる子も、必ずしも不幸だとは限らない。いつからでも、適切な援助をすることで、それを成長の糧にすることができる。

 

 

日々新型コロナウイルスの感染者数が報じられ、政府がGo Toの旗を振れど、なかなか思うように旅行を楽しむこともできない今だけれど、この本を読めば、涼しい風の吹き抜ける北海道の大地に立った気分や、山手線に乗ったり、東京駅の構内を歩いたりする気分が味わえる。爽やかな読後感というお土産付きで。

 

 

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