あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

厳しく強い愛の姿『二十五年後の読書』乙川優三郎著

先日読んだ『この地上において私たちを満足させるもの』と対をなす作品である。

 

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この作品が2018年の10月に出版され、『この地上・・・』が同年の12月に出版されている。しかもこの作品の中で、主要登場人物である作家の三枝昴星(さえぐさこうせい)が、長い苦しみの果てに上梓する書下ろし作品のタイトルが『この地上・・・』となっているので、この作品が長い序章という感じで、こちらを先に読んだ方がより楽しめるかもしれない。もちろん、独立してこの作品だけでも十分楽しい。

 

小さな業界新聞社の記者兼営業として旅行業界を駆け回っていた中川響子は、五十代になって病を得たのをきっかけに退職し、フリーのエッセイストとなる。その後、たまたま書いた書評が好評を得て、辛口の書評家として忙しい日々を送るようになる。

 

彼女には新聞社勤めの頃に知り合い、心細い病身の日々も支えてくれた男がいる。出会ったころはカメラマンだった谷郷敬(やごうたかし)は、今では三枝昴星というペンネームを持つ小説家であった。

 

美しい文章を求めて生きる小説家と、甘すぎる書評のあふれる風潮を苦々しく思っている書評家の二人の付き合いは、馴れ合いに流れることのない緊張感を持つ。物語はこの二人に、響子が大学時代から25歳まで付き合い苦い思い出を持つ男や、谷郷のすでに関係は破綻していながら病気のために捨てられない妻などが絡んで進む。

 

響子が27歳、谷郷が35歳の時に知り合った二人には二十年以上の時が流れ、谷郷は小説家として行き詰まりを感じているようだ。自身の体に再び不調を覚え、忙しすぎるからだと心配する友人の勧めで南洋の島に移り静養しながらも、響子はベネチアの病の妻のもとに行った谷郷に対し、三枝昴星の新しい作品を読みたいと祈る思いで励まし続ける。

 

響子にはオリジナルのカクテルを創り出すという趣味があり、ひいきにしているバーのバーテンダー久瀬と組んで、世界大会での優勝を目指している。物語には彼女の考える新しいカクテルはもちろん、既存のさまざまなカクテルも出てきて彩りとなっている。つい、シェーカーを買って自分でも作ってみたいなどという気が起きてしまうくらい魅力的だ。

 

響子にとって谷郷と出会ったところであり、楽しい日の思い出も南の島に多く、働きすぎて壊した体を癒すのもまた南の島だ。青い海や、そこでゆったりいきいきと生きる人々の描写も多く、読んでいると「多くを求めすぎて神経を磨り減らす日本の生活を怪しく」思わずにいられない響子の気持ちがよく分かる気がする。

 

大量の本に責められるようにして体調を壊した響子は、書評家でありながら本を読むことができず、南の島でもずっと読書から離れていたが、ある日彼女の編集者が東京からやって来て、彼女に本刷り前の仮綴本を置いていく。それは、久々の三枝昴星の書き下ろしだった・・・。

 

 

二十五年余の男女の愛情の物語。巷には不倫スキャンダルがあふれ、ゴリラ型とチンパンジー型の愛の形などひいた話も読んだりして、もともと人間のオスには一夫一妻は無理な個体も多いのかもしれないとも思うこの頃。この作品に登場する谷郷敬も、女性には優しくせずにいられないという人物で、響子を悩ませる。けれども、彼女を救い、生きる喜びのもととなるのもまた彼なのだ。

 

もっとシンプルに生きたらいいのに。南の島の人たちのように、のんびり大らかに生きることはできないものかと思うけれど、いったん複雑化した社会はなかなか単純化はできない。ならばその中で、複雑ゆえの楽しみ方も見出して生きるしかないか。

 

少なくとも、文学や音楽・芸術などは、そうした楽しみの重要な要素だろう。美味しい食事や、美しいグラスに注がれたきれいで美味しいカクテルなども。お金がなければ、小さく切り取られた空でも、アスファルトの割れ目の雑草の花でも、楽しむ気持ちさえなくさなければ、毎日小さな喜びを見つけられるだろうか。

 

 

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著者が参加した装丁も、強く二つの作品の関係を意識している。