あとは野となれ山となれ

たいせつなことは目には見えないんだよ・・・

60年の時を隔てて考える『彼女に関する十二章』中島京子著

主人公は50代初めの主婦宇藤聖子。夫は小さな編集プロダクションを経営し、ペンネームで雑文業もしている。哲学を学ぶ一人息子の勉は、この4月から家を離れ、関西の大学院に進み、久々の夫婦二人暮らしの日々だ。

 

聖子は、夫に新たに来た仕事の関係から、60年前のベストセラー、伊藤整の『女性に関する十二章』を読み始めることになる。そうして、それに倣う形で、彼女に関する十二章の物語が綴られていく。

 

それまで週に2日税理士事務所のパートに行っていた彼女は、雇い主の女性税理士に頼まれ、担当者がいなくなって困っているというNPO法人経理を、残りの3日で手伝うことになる。

 

そのNPO法人には、「調整さん」と呼ばれる元ホームレスの不思議なボランティアが出入りしている。また、聖子の前には、中学生の時に父親とともにアメリカに渡った初恋の相手の息子を名乗る青年久世穣も出現したり、恋とは縁遠いと思っていた息子がいきなり彼女を連れて帰省したりと、新しい人間との関わりが生まれていく。

 

初老で謎の多い「調整さん」と、まだ20代初めのあけっぴろげで積極的な久世穣と、年齢も違えばタイプもまるで違う2人だが、なんだかどちらも聖子が気になっている雰囲気で、これはもしかしたらもしかするのか・・・と思ってしまったが、アメリカ育ちの若者の行動は、私の想像をはるかに超えていた。

 

主人公宇藤聖子を取り巻く人間模様も十分面白いけれど、いまこの作品について記そうと思うと、『女性に関する十二章』の〈情緒について〉を、夫婦で議論するくだりが非常に重要なことを言っていることに気づいた。60年前の本の「いつだって日本で『軍事化』が進められるときには、日本的情緒が引っ張り出される」という部分に注目する夫に、聖子が「日本的情緒って?」と問うと、夫は次のように説明する。

 

民主主義の根幹にあるのは、個人を大事にしようっていう考え方でしょう。一人の人を、その人がほんとに幸せだと思えるような状態にしよう、少なくともそういう方向を目指そうっていうのが、民主主義なんだよね。だけど、日本では個人を大事にしようとするとワガママって非難されるような雰囲気があるでしょう。つまりそれが日本的情緒だよね。

 

さらに聖子が「個人をだいじにしようとすると非難される?」と問うと、

 

日本ってさ、みんなと違うことをしてる人を見ると非難する傾向があるじゃない。みんな横並びで同じがいいみたいな。だけど、本来、人というのは千差万別なものだよ。それを不自然に押さえつけるから、みんなと違うことをして堂々としてる人を見ると、自分の存在がちっぽけに思えて、文句つけたくなるんだ。それも日本的情緒だと僕は思う。

 

昨夜私は友人との電話で、話の流れの中で「日本人には民主主義が合わないのかも知れない」と口にしたのだけれど、その時にはこの本のこの部分を意識していたわけではなかった。読み終えてもう何日も経って、忘れてしまっていた。今ブログに記録しようと付箋を頼りに本を繰っていて、ああ、こういう記述があったんだと再確認し、60年前の著者とも、この作品の著者とも意見の一致を見たと嬉しいような、前途の暗さに悲しいような複雑な気持ちになっている。

 

60年前のベストセラーが書かれた1954年という年は自衛隊発足の年で、アメリカの日本に対する方針が、「非軍事化と民主化」から共産主義の防波堤にしようと「再軍事化」に路線変更された時期で、自己犠牲が特攻隊まで生んでしまい、あたら十代の若者をお国のためにと死なせてしまったような状態に戻らせてはならないという、著者の必死な思いが、一見軽く書いているようなこのベストセラーに忍び込ませてあるのではないかと夫は言う。

 

 

60年前の女性に向けて書かれた十二章をたどりながら、日本人や日本社会の想像以上の変わらなさを突き付けられる思いがする。女性の活躍だの多様性の時代だのと掛け声ばかりは威勢が良いけれど、この社会は、あなたたち一人ひとりは、本気で変わっていく覚悟があるのかと問われている気がする。

 

 

f:id:yonnbaba:20200816132804j:plain

こう暑いと、さすがにこうしたものが良くなる。塩とレモンで食べる握り寿司。

 

f:id:yonnbaba:20200818173409j:plain